理性が戻る

チア・シード

ダニエル4:31-34   


ネブカドネツァル王の夢を解いたダニエルは、忠告を受け容れるならば王国は続いて繁栄するであろうと告げました。けれども慢心の王は自らを誇ったために、神に打たれます。そして狂人と化し、期間は限定的であるとはいえ、野をさまよい草を喰らう生き恥を晒します。しかし天を仰ぐと、理性が戻って来たと記されています。
 
王はイスラエルの神と出会い、神を称え、従いました。とはいえ、これは現実のものとは考えられない物語です。事実、ネブカドネツァル王についてこのような記録はありません。ダニエル書が書かれたのは紀元前2世紀と考えられています。その時代のシリアのアンティオコス4世への願望を、過去の大王の姿に重ねて描いたのではないかと言われています。
 
ユダヤの信仰を弾圧してきたこの制圧者についても、もちろんこのような回心記事が当てはまるわけではありませんでした。すべては希望的観測です。人の社会に生きていくことができなくなり、野性的な恰好でいたという姿のこの王が、理性を取り戻し、目が開かれて再び王位に就いたといい、権力者がこうあったらという夢物語のように見えます。
 
この人間の世界で選ばれて大王となった君主の姿ですが、今の時代は、へたをすると万人が自分をそのような存在に見ている可能性があります。もちろん貧しく弱い人もたくさんいます。しかし自身を王様のように自ら見なしているような精神の者だって、生活苦を味わっていないような立場の人々の中には、少なくないようにも思われます。
 
自己愛の極致ですが、必ずしも例外的な異常事態ではないような気がするのです。己れに酔い、独り偉いと思い、他人に褒められたいだけの自分の姿に気づかないというケースは極端かもしれませんが、周囲は被害甚大です。そのような自分に気づかされたのは、苦悩を知り、絶望へ至る縁に立ち竦んでいたときでした。
 
そのとき、イエス・キリストと出会ったのです。自分の誤りを徹底的に覚らされ、人の世、人の支配の空しさを痛感します。自分すら、そのような無の中のさらに小さな者であることを知ります。現代は信無き時代と言いますが、実は理性すら欠けているのです。理性を取り戻す段階にすら、まだ人は達していないのではないでしょうか。


Takapan
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