炉の中の四人の縄目

チア・シード

ダニエル3:19-25   


この場面に至るまでに、金の像を巡る経緯がありました。バビロンで取り立てられた、王侯貴族の若者4人の内、ダニエルを除く3人が、金の像を拝まなかったということで、引き出されたのです。ダニエルが訴えられなかったのは、王宮にいて、別行動をとっていたせいであるかもしれません。3人は、行政官という立場だったとされています。
 
ダニエルは、かつてこの王の思い悩む夢を解いたことがありました。さすがのネブカデネツァル王も、この経験は応えたのでしょうか。少なくともユダヤ人側から、この旧約聖書のダニエル書を記した文化では、天下のネブカデネツァル王であっても、揶揄の対象となっていたことは、ダニエル書全般から窺えます。
 
ネブカデネツァル王に対して、3人は信仰の表明をしたわけですが、それが小生意気に見えたのではないかという気がします。王の怒りを買い、熱い炉の中へ投げ込めという言葉が王の口から発されました。残酷ではありますが、問答無用ではなく、3人の言い分を聞いただけ、まだいくらかでもましだったと言えるかもしれません。
 
国を動かす権力をもつ者の行事や方針に、なんとしても従わせることで、その権威を保とうとすることの愚かさを、今に伝えるような記事だとも言えます。多少有能な人材でも、権威に従わぬ者は、火にくべるという暴挙が歴史上あったのです。しかしこれが、少し形は変わりますが、現代にも起こっていることは、多くの人がお感じでしょう。
 
火で焼かれるというのは、当時当地では、最大の恥辱であったはずです。3人は炉の中へ。そこへ連れて言った役人たちも焼け死んだという愚行も記されています。しかし、王は驚きます。慌てまくります。3人は歩いている。しかも、4人目がいる。王をして「神の子のようだ」と言わしめたその人物は、この後姿を現さず、謎のままです。
 
3人の神を罵る者は八つ裂きだ、と王は能天気に言いますが、ダニエルが夢を解いた時も、ダニエルの神こそ真の神だなどと感動していたのに、その直後に金の像を拝めときましたから、この男は信用がならない、ということをダニエル書はからかっているようにも見えます。権力者は自分の気ままに、好みと思いつきのままに、人の命をも左右するのです。
 
火の中で3人は、否4人は、縄目を解かれているではないか、と王は口にしていました。火の中を自由に歩いている、と。4人目もまた、元々縄目にあったかのようにも聞こえます。もしもそれがキリストであるなら、縄目を受けたに久しいイエスの姿を思い起こします。それどころか、十字架で無惨に殺されたのです。しかし、それが自由を与えました。


Takapan
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