たとえそうでなくとも

チア・シード

ダニエル3:16-18   


王の血族または貴族であった若者たちだとされています。その中に、名を挙げられた4人がいるというのです。うちダニエルはペルシアの長官になり、王宮に留まりました。王の夢を当てたためでしょうか。他の3人は、ダニエルと共に試練を乗り越えた仲間であったことから、ダニエルの願いによりバビロン州の行政官に任命されたと記されています。
 
今回カルデア人たちはに妬まれ狙われたのは、この3人です。王の命令として、金の像を定期的に拝むお触れが出たのですが、これに3人が従っていないと告発されたのです。王は怒りに燃え、3人を呼び出し尋問します。ある意味でまだ寛大なのかもしれませんが、チャンスを与えるから思い直すかどうか決めよと最後通告を言い渡すのです。
 
拝まない、つまり王の命令に従わないのは本当なのか、と尋ねます。ここでおとなしく拝みますという返答がくるものと、王は期待していたかもしれません。王というものは、自分の権威を何よりも大切にするものなのでしょう。国民一人ひとりの幸福より、王の権威が脅かされることのほうを重大に考えます。国の統一のためにそれが必要だと理解して。
 
権力者が何を重んじ、何を自分の根拠としているのか、がここから分かります。それは現代では制度的に異なるものとなったとはいえ、何かしら似た構造があるのかもしれません。王が個人でなく政党となり、また政権行政となっただけで、私たちは聖書の中から、政治とはどのようになされるのか、どう内で考えるものか、学ぶ必要があろうかと思います。
 
これに対して3人は答えます。今日味わうべきはもちろんこの箇所です。王が脈絡を欠くようにして問うた言葉にまず注目します。王の手から救い出す神とは何者か。不自然な問いですが、これに対して3人は証しを立てます。拝めという命令には従えない、燃える火の炉に投げ入れられても、神は救うのだ、と結論だけをずばりと宣言するのです。
 
さらに、たとえそうでなくとも、神ならぬものを拝むことを自分たちはしない、ときっぱり告げます。この勇敢な返答が、クリスチャンたちをどれほど励ましてきたことでしょうか。いえ、ユダヤ人たちが実はそうでした。クリスチャンと称する者がユダヤ人たちに対して、この王ネブカドネツァルとして振る舞ってきたのです。
 
人は、その社会状況や置かれた立場により、これらどちらにもなりうるのです。たとえ思った通りにならなくとも、というのは、信仰の言葉として弱々しく聞こえるかもしれませんが、目に見えぬ信頼関係に結ばれた中での発言です。関係そのもは揺らぐことがないのです。神との関係を裏切るようなことだけは絶対にしないという、強い意志であるからです。
 
また、こんな見方も可能でしょうか。そもそもこの王は自分勝手です。まるで自分はこの炉の件に責任がないかのように、ただ掟に従わないことについて裁定を下すいい立場に身を置いているようですが、わがままには呆れます。ただ、もしかすると、これは神の立場を代弁していると受け止める隙間もあるでしょうか。裁きの場で私たちはどう答えましょうか。


Takapan
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