狂気の王ネブカドネツァル

チア・シード

ダニエル2:19-23   


ネブカドネツァル王が精神的に不安定だったことをダニエル書は強調しているように見えます。ここでは夢のために無理難題を振りまき独裁者ぶりを示します。後には狂人化して荒野をさまようような描かれ方さえされています。全く尋常ではありません。自分の見た夢の意味を解け、但し夢の内容も当てろ、などと部下に要求しているのです。
 
大帝国を築き、その支配力を世に轟かせた大王の、陰の部分を聖書は暴いているというのでしょうか。もし脚色だとすると、それは神に逆らう者のなれの果てを悪しく描くということでしょう。イスラエルに逆らう民族は滅ぼされ、イスラエルを貶めた帝国は報いを受けることになる、そんな歴史を描いて民族の正当化を図ったということなのでしょうか。
 
しかし、政治や軍力の背後にある人間の狂気、これはまやかしものではありません。神の霊の前に無力な人間の浅はかな知恵です。一体、夢を知者が解けないからと言って、自国の知者を皆殺害して、どうやって国が成り立つのでしょう。高官アルヨクは困惑に窮地に立ち、思い起こしたのは異国人のダニエルでした。捕囚地から受け容れ才覚を見出されて地位を築いたダニエルだったら、どうにかしてくれるかもしれない、と頼りにしたのです。
 
バビロニア帝国側からすれば異邦人で異教の神を信じるダニエルですが、王の錯乱という非常時に、誰が信頼できるのかと考えると、分かったということです。神を信じる者は、ふだんは相手にされなくても、いざという時に信頼を得ていることが分かります。だから、目に見えた反応がなくても、淡々と神に仕えているべきなのです。
 
ダニエルは、同じ信仰をもつ友と祈ります。こうして信徒の間に、神の力が降りてきます。神は幻の中でダニエルに、ミステリーを明かします。神と共にいる者、祈る者に、神はその思いを明かしてくださるのです。いまも聖書という形で私たちに呼びかけ、私たちに神の秘密を教えているということに、お気づきでしょうか。
 
こうしてダニエルが主を称えるというのが当該箇所でした。王をすら支配する神は、神を愛する者に現れて下さいます。すべての人の悩みを解く道を拓く知恵とは何でしょうか。錯乱した王が殺し尽くそうとした知者たちの知恵は、狂気に勝るものであったはず。私たちは民主主義という制度をいまとっているが、このような一人の狂気により国が左右されることのないようにという、人間の達した知恵なのでしょう。
 
民主主義はかなり有効に働く方策でありました。しかし万能ではありません。神からのものでなく民からのもの、人間由来のものだからです。一人の為政者に狂気が宿り、まず周囲の権力者たちを唆し、流された集団が「合法的に」狂気の実現を押し進めます。多くの人や民を惑わす悪しき霊が漂い覆う下で、多くの人が思い込まされ流されて、また自ら選び取って、共同幻視の中で「正義」を定めてしまうのです。
 
ネブカドネツァルは現在、必ずしも独裁者一人という姿をとらず、民主主義という形で現れもします。集団がネブカドネツァルになるかもしれません。いったい、頼るべきダニエルが、いるのでしょうか。それとも、いっそのことバビロンが滅びたようにこの世の国は滅びて然るべきであり、神のイスラエルこそ残ったほうがよいとでもいうのでしょうか。


Takapan
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