テストを望む勇気

チア・シード

ダニエル1:8-16   


バビロンに連行された者の中の血統と才覚に優れた若者が4人。ネブカドネツァル王により見出され、王宮で用いられるべく教育を受けることとなりました。現地読みの名まで与えられて期待されたのでしょうが、これはイスラエルの民にとっては屈辱的なことでした。祖国の名前を否定され、異国の名を付けられる。名は体を表すことも思い起こされます。
 
ところがこのユダヤ文書、元の名のままダニエルとずっと読んでいます。意地なのか矜持なのか、改名させられたものは最初だけで、ダニエルはダニエルだ、と言わんばかりです。日本でも、韓国を併合して同様のことをしていた歴史があります。その流れはいまもまだ残っているのですから、名前を巡る問題は、深刻なものを含みます。
 
まず4人は、食事のことで王に従わず、自らの道を証しすることになります。これを今回味わいます。ダニエルは王の出す食事と酒とで、身を汚すまいと考えました。こう考えた理由を知るのは簡単ではありません。律法の故でしょうか。潔白感の故かもしれません。パウロだったらどう考えただろうか、と想像してしまいます。
 
身近な世話をするのが宦官だったというようですが、神はこの長を、話の分かる優しい人物として備えた、そのように喜捨は評価しています。健康のためを思っての措置であったと少年たちに説明し、一定の気を払っているようにも見えます。ダニエルもこれを快く聞き入れ、それでは試してほしいと願い出ました。
 
王の食事というのは肉だったのでしょう。律法は、血を抜かないと肉を口にすることができないとしています。血は命だからです。なにも菜食主義だというのではないはずです。テストをしてくれと望むのは、よほど自信があってのことでしょうが、果たして野菜のみの生活は少年たちをさらに健康にさせる結果をもたらいました。言い分が立ちました。
 
王もまたこれ受け容れるだけの器の大きさをもっていました。ダニエルたちは中央政府で登用され、この国の中で一つの力を示していくことになっていくのでした。そこで、テストしてほしい、こう願う勇気について、いま少し考えてみましょう。私たちはテストを厭うものです。できるならなしで済ませたい。試されるというのは嫌なものではありませんか。
 
しかし進んでこれを求めるべきだという場合があるものです。信仰を貫くためにテストされるのを酒、甘んじて世に従うことが、私たちは多いものです。日曜日に休ませてください、この職場に求めることができないままです。キリスト者であることを明かさないでいて悶々とすることがあります。それでよいのかどうか、改めて自問したいと思います。


Takapan
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