黙示の秘密を知らされた者

チア・シード

ダニエル12:1-4   


旧約の中の黙示録とでも言うべきでしょうか。エゼキエルも不思議な幻を見てそれを描いていますが、それと比べるとダニエルのそれはいくらか理性的なようにも見えます。それでもやはりそれは不思議な情景を描いているには違いなく、いまそれを閉じようとするときに、終わりの時の幻を私たちに見せてくれています。
 
秘密にされるこの終わりの日の様子は、さしあたり封印されたとされていますし、そもそも生の人間がそういうものを理解することはできないというのはよく分かります。けれどもまた、完全に不可能だとまでは言えない事情にあるようにも見えます。ヨセフやダニエルのように、夢を解き明かす者はいてよいらしいのです。
 
ダニエルの見たものは、大天使長ミカエルでした。ミカエルが立っている。立っているということは、行動を起こし始めるということを意味します。主の民の傍らにいて、助けようとするのです。その味方なのです。苦難の時を地上は迎えるけれども、民は救われます。命の書に名が記された者たちは、必ず救われるのです。
 
それは、すでに死を経た人々が目覚めるということも意味しています。復活です。しかし目覚めること、即ち復活するということが、すべて永遠の命を得るということではありません。永遠の咎めへと連れて行かれる者もあるのだといいます。新共同訳だと「久に続く恥と憎悪の的」と訳されていますが、不思議さの訳出は難しいものと思われます。
 
ダニエルの幻が求めているものは、一つには悟りであり、一つには人々を義へ導くことであるようです。神との間の義が問題になるとすれば、それはキリストを信じてキリストとの関係ができる、そのようにキリスト者は理解しています。復活して永遠の命を与えられる者は、キリストを信頼し、キリストに従って行った者であるということになります。
 
ダニエルへ向けて告げられた言葉は、終わりの時まで封印されます。ただ探し求める者がたくさん現れますが、私たちもまた、いまこうしてこの言葉を聞いています。果たして封印されたものの外側だけ私たちは見ているのでしょうか。それこそ、実はいまその中身を見せてもらっているのでしょうか。この預言の書を読む私たちはいったい……。
 
それは定かではないとすべきでしょうか。古の淡い像を映す程度の鑑のように、どこかまだぼんやりと、しかし朧ながらも確かにその幻を感じとって然るべきとしているのではないか、というような気もします。すべてのすべては秘密であるにせよ、秘密があるということを知らされているということには、意義があるのだと捉えています。


Takapan
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