増す知識と幸福との関係

チア・シード

ダニエル12:1-4   


終末の黙示としてのダニエル書の魅力は、その後半に登場します。ここ12章の半分は、見方によってはおぞましい光景です。それもかなりの具体性を帯びた形でなされており、いよいよ終わりの日の凄まじい様相が示されることとなります。大いなる天使ミカエルが立ち、苦難を極める時が来ます。同時にそれは救いの成就の日でもありました。
 
復活が暗示され、裁きの存在が確認されているようにも見えます。「私ダニエルは」との視点で描かれてきた預言ないし黙示の書ですが、ここへ来てひとつ「ダニエルよ」との呼びかけが出てきます。ティグリス河畔で亜麻布を着た一人の人(10:5)が語りかけていたものです。10章末からずっとここまで、実はこの者の言葉であり、ダニエルのものではありません。
 
ダニエルはただ聞いていただけ。あなた、と呼ばれているのがダニエルです。そしてこの長い一続きの預言を、秘密にしておけ、封印せよ、と命じられています。封印しながらもこうして明らかにされているわけですが、神の言葉を受ける者たちだけの間に、秘されるべきものとして与えられたということなのでしょう。
 
ここに、その最後の一言があります。「多くの人々は探究して知識を増やす」と。新共同訳では「多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す」でした。私たちは言葉を俎の上に載せて謎を解こうと考えることを好みます。それでよいのでしょうか。神の言葉は、私たちのパズル遊びの素材なのでしょうか。知識を増やしてそれで幸福なのでしょうか。
 
分かったつもりになって、分からない者を見下したり差別したりしていないでしょうか。苦しめていないでしょうか。裁きの場面で永遠の咎へと追われる側に自分が入っているなどと、聖書を読む者は誰も思うことがないでしょう。でもそれでよいのでしょうか。知識が信を増すなど、自分本位の、しかも欺瞞でしかないのではないでしょうか。


Takapan
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