キリストの言葉を語り告げるために

チア・シード

コロサイ4:2-6   


「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(3:16)とのアピールが、ずっと響いています。家族に対して、主人に対して、アドバイをした上で「すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい」(3:17)という視座に再び戻るかのようにして、告げ始めます。それはまず、祈りからです。
 
「たゆまず祈りなさい」と言うだけなら誰にでもできるし、「感謝のうちに」祈るようにとのアドバイスも簡単でしょう。でも「目を覚まして祈りなさい」との呼びかけはどうでしょう。裏読みする必要はないけれど、私たちの祈りというものが眠り呆けていることを指摘されたような気がしないでしょうか。実際、そうなのかもしれません。
 
イエスが弟子たちに、幾度も「目を覚ましていなさい」と釘を刺していたことを思います。生活を共にした弟子たちにすら、そうでした。私のような者はぼんくらで、眠りこけていると言われても仕方がありません。でも「私たちのために祈ってください」と言います。パウロが時に口にする「同労者」になるように、との誘いでしょうか。
 
「キリストの秘義を語ることができますように」祈ってくれ、と言います。キリストの死の意味、その復活の奇蹟、イスラエルと異邦人の救いの計画、何をとってもミステリーです。逆説の連続です。パウロは「そのために牢につながれている」のだが、「語るべきしかたで語って、この秘義を明らかにすることができるように祈ってください」と求めます。
 
人間的束縛は、神の霊の自由を制約しません。神に従う働きは自由です。「時をよく用い」て、「知恵をもって振舞う」のです。教会の外の人々に福音をもたらすのです。「塩味の効いた言葉」までには至りませんが、そう心がけていれば何を答えるか思い悩む必要はありません。キリストの言葉が宿り、外の人へ語るべく、目を覚まして祈りましょう。


Takapan
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