ロゴスの門

チア・シード

コロサイ4:2-6   


パウロの名で書かれた書簡と見られています。パウロ本人の手によるのではないか、という研究者もいます。エフェソ書がこのコロサイ書の焼き直しであることは、広く認められていると思います。ここには、迫害の対応や異端との戦いへの心構えがアドバイスされています。
 
「神が御言葉のために門を開いてくださ」るよう祈ってほしい。エルサレムのような城壁都市は、日没と共に各入口の扉が閉じられました。ヨハネ伝では羊の門を開閉する羊飼いの姿が示され、この門を通らないで羊の囲いに入る者は強盗であると告げました。安息日にこの門を入る物売りの罪をエレミヤは強く指摘しました。
 
ペリシテ人の町の門を引き抜いて持ち帰った怪力サムソンに対してペリシテ人は怒り心頭に発し、イエスは狭い門を見出す者は少ないと言いました。ペトロは天国の鍵を授けられましたが、こうした門の鍵ということだったのでしょう。
 
神の言葉のために開かれる門というのは、どういうことでしょうか。本文での表現は「ロゴスの門」となっています。単数形の「門」ですから、イメージは唯一つです。牢獄の中に閉じこめられているという設定の筆者パウロの目の前に、扉が開かれることが望まれています。そうしてパウロがもつ神のロゴスあるいはずばりロゴスなるキリストが、世に開かれて溢れて出て行き拡がっていくことを願っているのでしょうか。
 
それとも、まだパウロが十分見出していないような、神の恵みの言葉が、あるいはさらなる奥義が、また新たに開かれて、キリストのミステリーを語ることができるようになることを願っているのでしょうか。私には、どちらの意味もこめられているように思えます。一方を棄てる理由が見当たらないと感じるからです。
 
「秘められた計画」とはもちろん、後に英語の「ミステリー」となる語からできており、つまりこれは一語で表現されています。祈る者が、それをすべて知り尽くす必要はありません。但し、キリスト者の群れの中のどこからか、それは漏れ現れてくることでしょう。門は、至るところで開かれっぱなしというわけにはゆきませんが、どこかで、開かれる時がくるものです。
 
それでも、私たちは一人ひとりが、相応しい場所に置かれています。何か、それぞれに語る必要が起こる場合があるでしょう。その時には、塩味の利いたものであるように、と忠告されています。甘ったるいのもいけないし、単に苦いのであってもならない。塩は生命を支えます。また、腐りやすいものを保存する働きがあります。生命をもたらし、維持されるべき神の言葉を、異端へ向けて語る場合もあることでしょう。


Takapan
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