新しい人を着て歩み始める

チア・シード

コロサイ3:5-11   


キリスト者に恵み与えられた強みのひとつは、いつでも、どこからでも新しい歩みができることではないでしょうか。しくじっても、倒されても、次の一歩があります。上を向くことができます。すでに救われたということが嘘になるわけでもなく、その都度真実があります。人間の中に真実がなくても、イエス・キリストの真実がそれをもたらし、助けます。
 
私たちの外から力が及ぶのです。それを受けるならば、私たちは生きます。その受け方として、コロサイ書の記者は、キリストを着るという言葉をパウロからもらいます。しかし、キリストでなく、新しい人を着る、という言い方をしています。表現がやや哲学的で、ギリシア思想を学んだ素地が隠れているようにも感じられます。
 
突如、スキタイ人という語が出てきているからです。これはギリシア人が好んで持ち出す、野蛮人の代名詞でした。そのような人間、ユダヤ人やギリシア人と同じ系列に入れられないような人々までもが、キリストを信じることがありうる、キリストの内に生かされていると言い出すのです。失礼な言い方ではあるのですが。
 
新しい人生を始めよう。私たちは、悪いことから離れるようにできるはずです。これらが救いの条件として扱われることはよろしくありませんが、人の目には時間的順序があろうとも、質的にすべてが同時的なのではないか、と考えてみましょう。キリストに出会うかどうか、そこだけが特異点であり、現象の生起順に時間的因果の絶対的価値を置かない考え方です。
 
古い人はまとわりつくかもしれません。けれども、それはもはや中の人格あるいは命にしみついてはこないのです。脱ぎ捨てられるべきものに過ぎません。新しい人はキリストであると言ってよいかどうかは定かではありませんが、これを着るというたとえに基づくならば、私という存在の外を包むものだと言えるでしょう。
 
会員証としてのウィンドプレーカーを、殿堂入りの選手が羽織らせてもらう光景があります。私たちも、この神の国のメンバーとして、そのグループへ招かれました。キリストとの関係を結ぶことで、その資格が授けられました。地上を生きるしかない今の私たちですが、実は喜ぶべき権利が与えられているのです。


Takapan
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