奴隷はいまここの私であると見て
チア・シード
コロサイ3:22-4:1
当時の社会です。奴隷制は日常のものでありました。それが人権問題などという意識があるわけではありません。常識について疑うこともないし、そういうものだという理解について、他の文化や時代から咎めるようなこともないのです。むしろ、この奴隷という制度を過去の過ちなどと見下す方が問題ですし、自分を見失うことにもなるでしょう。
私たちの時代にも、本質的に奴隷制というようなものがあります。形を変えてはいますが、本質的に社会の営みの中には、奴隷制的構造があるように思えてなりません。かつての自由市民という立場が果たして私たちのいまの姿と同等かというと、そうではないような気がします。もしそう気づくと、ここにある言葉が生き生きと伝わってくると思うのです。
「何事につけ肉による主人に従いなさい」とは、主なる神に比しての言い方でしょうが、私たちが会社の上司に対して、あるいは取引先の相手に対して、陰で「従っていられるかよ」とぼやくような様を想像してみることもできるでしょう。それはうわべだけのことではなく、「主を畏れる者として真心を込めて」従うべきだと言っているわけです。
神に仕えるという姿勢を以て、その人に接するべきなのです。もちろんこれは、キリスト者である奴隷のことです。信仰をもつ奴隷が普通にいたのかなどと意外に思っている暇はありません。これは私たち庶民の信徒そのものだと見た方がよいのです。いずれ神から「相続にあずかる」のです。そういう約束を受けているので、喜びを得ていられるのです。
まずその根本原理としての「主キリストに仕えなさい」を確立させます。信仰をはっきりさせます。不正に手をかけてはいけません。そして次は、ハラスメントを行う側への忠告です。「奴隷を正しく公平に扱いなさい」という一言。「知ってのとおり、あなたがたにも天に主がおられるのです」と短いが、人間が神の前に公平であることを改めて覚ります。