共に死に共に生きる

チア・シード

コロサイ3:1-4   


上にあるもの。地上にあるものと対極にあるもの。私たちは、対比の中でしか考えづらい面があります。しかし、これだとさらに下にあるものへは考えが及んでいないかのように見えます。私たちにとり、この地がすでに下のすべてであるというのでしょうか。私たちの現状から、上へまたは下へと移るような世界観とはどうやら違うようです。
 
地上がもう地の底、あるいは底辺であるということ。これより低い位置にある世界はないという考え方。ゲヘナという語は、必ずしも私たちのイメージする地獄ではなく、火で焼かれるところだとされますが、質的に異世界を感じさせるものです。審判によりそうしたところに追いやられる厳しさは、いま少し保留しておくようにしてみましょう。
 
この次の場面では、地上の悪、私たちの醜さについて、これでもか、というほどに語られます。上にあるもの、それはキリストの座であり、まさに命なるもの。私たち人間本来に、すでに命というものがなくなっていましたが、かつてエデンの園の時代にはあったかもしれないと考えてみましょうか。しかし人間は、その時からもう変わってしまったのです。
 
変わったままに、人間は今日まで来ました。命のないままに、今日を迎え、私たちが生きている世界となりました。だが、キリストにあって死ぬ経験をしたならば、永遠の命を与えられると知りました。手紙は告げます。君たちはすでに死んでいる。けれども、キリストと共に復活させられたではないか、と。復活はしたのではなく、させられたのです。
 
そうして命は、キリストと共にもうすでに神の内にかくまわれています。さらに次に、キリストが再び現れるその時、君たちもキリストの栄光の中に包まれてよみがえるのだ、と言います。ここまでくると、確かに信仰です。神がそのような計画を立てているということは、聖書に依らなければつかめません。それで、それを信じるか否かが問われます。
 
キリストと共に死んでいること。これがこの手紙全体に強く現れています。コロサイ書は、宇宙的な眼差しが表に出てくるので、そこに目を奪われがちですが、キリストと共に死に、そして生かされるという基本的な枠組みの中で、私たちがどのように力を受けるか、どのような命を与えられるのか、それを信じることが問われてもいるわけです。


Takapan
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