教会の夫婦事情

チア・シード

コロサイ3:18-19   


「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(エフェソ5:31)という秘義を示し、「キリストと教会とを指して言っている」(5:32)とまで明かしました。夫と妻の関係は、恐らくコロサイ書のこの3章を下敷きにして、エフェソ書は書かれたものと思われます。コロサイ書はなんとシンプルなものでしょう。特に注記するほどのないことです。
 
「妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と言って終わりであり、「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません」と言い放って終わりです。今回は、この2つの文句で見つめるところを終えます。つまり、それだけのことです。コロサイ書はこの後、子ども、父親、奴隷、主人、とコメントの対象が続きます。
 
妻たちへのメッセージで「主にある者」とは誰のことでしょう。妻のことのように読めます。女性の信徒が多かったのでしょう。それは現代でもそうですが、しかし教会を司る代表や役員は、殆どが男性であるのが当たり前のようになっている社会はどうなのか、私たちはやはり問わなくてはならないでしょう。妻もまた「主にある者」なのです。
 
ではこの夫たちは、「主にある者」なのでしょうか。そうではない場合が、ここに暗示されているのではないか、という気がします。信仰をもたない夫をもつ妻も、自分は信仰者として従うべきだといいます。これなら、現代にも投げかけられる声として受け止めることができるでしょう。では「教会へなど行くな」とその夫が言ったら従うべきでしょうか。
 
「神を信じてはならない」と夫が命ずれば、信仰を止めるべきなのでしょうか。そこが「主にある者にふさわしく」という言葉の利いてくるところであるかもしれません。夫は神ではなく、神に従うべきです。結論は決まっています。でも、ここにはっきりと「夫に従いなさい」とあるのは、まるでダブルブッキングのようで、困らないでしょうか。
 
どうすればよいのか、一概に決めることはできないかもしれません。夫の信徒が、未信徒の妻をもつケースがあるかもしれませんが、これもまたどちらにとっても痛いところです。「つらく当たってはなりません」という忠告は、よくよく考えれば、黙して辛い仕打ちに耐えている妻の有様が伝わってくるでしょう。それに気づかぬ夫もあるでしょうが。


Takapan
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