妻と夫とが互いに

チア・シード

コロサイ3:18-19   


原文の表現は、女と妻とを区別しない性質のものなので、日本語でこれを時に女と訳し、時に妻と訳しているのは解釈に基づくものと理解しておきましょう。男と夫も同様です。ぜんぶ女でも、さしあたり読み取れはすると思うのですが、つくづく翻訳というのは難しい作業だと思います。どうしてもひとつに決めてしまわないといけないものですから。
 
社会常識的に、同じ語でもなんら不便ではなかった時代であり文化でした。子どもには性別がないような感覚でもあったのと、子どもはずいぶん早くに大人扱いをされていた、そしてまたとくに女性は若くして結婚させられていたというような中では、確かに変に区別する必要はなかったのでしょう。
 
妻としての立場にある大人の女は、夫の下に立つものなのだとここでも言われています。パウロの考えを踏襲しているとも言えますが、そもそも常識的なことを言っているに過ぎず、わざわざ「聖書」としてこれを言わなければならないのかどうか、分かりません。当然の心得を手紙ないし説教の中に置く必要が何故あったのでしょうか。
 
但し、それはもし付加部分がなければ、の話です。「主において相応しく」と妻に対して告げている意味は大きいものと思われます。これを受け止めるのはもちろんクリスチャンのみです。クリスチャン女性は、それが主にあって望ましいことであるぞよ、と述べているのです。世間的に当然のことでも、主にあってよいことと上乗せするのは珍しいことではありません。
 
御霊の実にしても、望ましくない放蕩の仕業にしても、一般道徳とかけ離れたものではないでしょう。ならば、重要なのは「主にある」ことです。新共同訳はがここで「主を信じる」のように創作して訳す理由は、ちょっと分かりません。フランシスコ会訳が「主に結ばれた者」とするのは、新共同訳にもよくあるタイプの訳でまだ理解はできるのですが。
 
夫の方は、妻にアガペーを注ぐようにと勧告されています。だから妻を辛くさせ惨めな思いを抱くようにさせるな、と注意をしています。夫に従う妻をさらに押しつぶすような仕打ちをするなということでしょうが、もちろんそれはアガペーの精神と対極を成すものでしょう。現実にそんなことをやってしまっていることに気づくのが私たちではありますが。
 
ここにある夫と妻とは、別々に見ることもできようかと思います。つまり、夫婦のどちらか一方だけがクリスチャンである場合にも、それぞれが突きつけられてよいのではないか、ということです。ただ、今は夫婦ともクリスチャンである場合の情景を思い描いてみましょう。エフェソ書の記者はこれを、キリストと教会の関係に展開しました。夫の役割を強調していくことになります。でもここでは、私たちの次元での戒めとして噛みしめておきましょう。

Takapan
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