キリストを胸に刻むために

チア・シード

コロサイ3:12-17   


神に選ばれた者同士、共に生きるのだ。赦し合うこともどうかよろしく。さらに、すべての上に愛を着けよ。すべてが結びつけられるから。キリストを着よと命ずるのと、きっとそれは同じことなのでしょう。そこにはキリストの平和がもたらされます。人の心がキリストに支配されることが何より大切なのです。そこに呼ばれたということなのです。
 
パウロの弟子なのか、後の人が心寄せて綴ったと思われる手紙。落ち着いた様子で手紙が書かれているように見えます。現場の問題に躍起になっていたパウロとはやはり違います。面白みはないかもしれませんが、パウロならどうしたかということよりも、キリストの教会が何を大切に考えていたのかがよく分かるように思います。
 
私たちはこうした手紙から、よりよく知ることができることがあるような気がします。当時の教会が何を求め、何を誇り、また何を重視していたか、などを。そうやって一つひとつの記事を見ていくと、身につまされる思いさえします。憐れみの心や寛容の精神など自分にはないことを思わされます。人の失策を裁きの材料として自分の正義を誇るのです。
 
赦し合うなどとんでもない。少なくとも自分の側からは、赦しなど存在しないかのようです。さらに愛を、などというレベルですらありません。こんな者に愛などあろうはずがありません。平和は片時も訪れません。何を感謝などしていましょうか。こうやって一つひとつが刃のように己れに向かって突きつけます。自分はいったい何様なのだろう。
 
それと共に、改めて覚えることがあります。これらは、キリストが私に対してしてくれたことを並べているのではないか、と気づきます。私が他人を信頼できない間にも、ずっとキリストは私を信頼していました。こうして十字架にぶら下がったままで、おまえがこちらを振り向くのを待っているのだ、と呻く声が聞こえてきます。
 
きっといつか分かってくれるだろうから、と実らないいちじくの木が切られようとするのに対して主人に懇願したあの話のように、キリストは私が全うになるのを待ち、今日を生かしてくださっています。主イエスの名で行うということは、このキリストを熱く心に刻んでいる状態で、何かをすることだったのではないでしょうか。


Takapan
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