キリストの平和

チア・シード

コロサイ3:12-17   


キリストと共に復活の恵みの中に置かれた人々よ。キリストの平和をすべてすべてとせよ。ここには美しい教えが並んでいます。こんなことができるわけがないよ、と文句の一つも言いたくなります。そのような完全をもたらすのは、愛です。そう聞くと、少しだけ安心します。私たちの側からは、この愛は生まれません。私たちでは創造できないのです。
 
愛を上に着よ、と手紙は告げます。これは、キリストを着よ、と言うのに等しいものです。そしてキリストの平和が、私たちの内へと及んでくる道、私たちを支配する道が形成される可能性が出てきます。クリスチャンだったら、こうした指令に対して、なにか恥ずかしさを覚えるものでしょう。自分には無理だ、自分にそんなことができるなんて言うことはできない、と。
 
しかし、むしろ矜恃を抱くようでありたい。そう思いませんか。自分自身が立派になるとか、もちろん立派になっているとか、そんなふうに考えよというわけではありません。時折そうした勘違いをする人がいます。ハイテンションになり、自分たちはなんて清いのでしょう、と自己愛に膨らんでいくグループの内にいると、皆でその階段を駆け上がっていきます。
 
これは自分がそうなるというものではありません。これはキリストの姿です。私たちの心と身体には、キリストの姿を映し出すスクリーンがあります。そしてそのキリストが私たちにこうあれと期待をかけているだけです。私たちを信頼しているのです。私たちはこの信頼に応えようとするかどうかの自由があります。自由はそのために用いたいものです。
 
神に選ばれたではありませんか。神に愛されているではありませんか。教会という共同体は、互いにキリストの業を実現していくために現れたもの、つくられたものです。人にこれはできません。キリストが人に何かしら神のものを実現させたいと思うなら、まずきっと教会からではないのでしょうか。
 
キリストを慕うと言いつつ、神がそこに神の業を示さない、そんなことがあったら、悲しすぎます。キリストの平和、キリストの言葉、これらが対になり並んでいます。心を支配し、内に宿るようにせよ、と命じられています。私たちにはこれらが求められているのです。あるいは、これらはもしかすると、プレゼントなのでしょうか。キリストがこれらを与えてくださる、という意味で。
 
神の支配、神の国に結び付けられるための、唯一の道がここにあります。唯一の橋、それはキリストだけです。主イエスの名において、その力の下で、私たちは生きるのでなければなりません。理想は不可能なのではありません。理想を目指し、理想を土台として、挫けことなく、上を見続けていくだけでよいのです。自分で創造しようなどと思わずに。


Takapan
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