哲学とは知を愛すること

チア・シード

コロサイ2:6-12   


空しいだまし事の哲学。誤解を招きやすいこの表現が、どれほどの損失を人類にもたらしたことでしょう。いえ、教会にもたらしたことでしょう。もとより、誤解する人間の方が悪いのは当然であるかもしれませんが、哲学、つまり語の成立からすれば知を愛する試みを、無意味なものと軽く扱うことを正当化する免罪符としてしまったことは否めません。
 
聖書は、金や富に仕えること、それらを神に代えて崇拝する、つまり愛することはきつく戒めていますが、知を愛することを禁じていることはありません。むしろ、知恵を愛することは推奨しているのではないでしょうか。知恵は旧約聖書において、神そのものであるように扱われていますし、これを愛することが悪くあろうはずがありません。
 
コロサイ書で、哲学がだまし事だと言っていたのは、理屈をこねて信仰を説明し尽くそうとする流派でした。人をとりこにする、理屈で如何にも正しいかのように迫ってくる、そうした輩のことです。聖書を巧みに引用したり、さも尤もらしいように説明を施し、このような意味に聖書を読まねばだめだ、と迫り権威を示すような、頭のいい者たちのことです。
 
すると、気づくことがあります。私たちは、教義や神学を、そのように扱っていることがあるのです。下手をすると、私たちの日常の教えが、そのように理論的に建て上げたものとして正しいだろうと誇示することそのものであるようにも思えてきます。その特徴のひとつに、人をとりこにする、というのがあります。人の考えに従うことを信仰のように思わせます。
 
人間の言い伝えに基づくもの、それが教会の中に居座っていないか、点検する必要があります。キリストの内に根付き、建てられ、そこにキリストが満ちているかどうか。私たちは、キリストと共に葬られ、復活させられたのです。死んでいた者が生かされているのです。だのに、理屈ばかり並べて、自己満足の理解に有頂天になっていやしないでしょうか。
 
人間的な納得が大手を振って、真理であるかのように掲げられていることはないでしょうか。この世の霊と神の霊とを簡単に見分けることはできません。但し、屁理屈を優先させると、キリストが支配する構図が崩れてしまうのは確かです。教会の内で権威を掲げれば掲げるほど、実はだまし事となるのであって、よく考える哲学がだますのではないと弁えましょう。


Takapan
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