哲学という翻訳でよかったのか

チア・シード

コロサイ2:6-8   


キリストの中に、ソフィアとグノーシスの宝が隠れている。キリストの中にこそ尊い知があるのだ、と言っています。この同じソフィアが、愛するのフィローと合体したフィロソフィアとなると、空虚なペテン師と同格に置かれることになっています。このフィロソフィアこそ、いま私たちが「哲学」と訳す言葉です。
 
フランシスコ会訳はこれを「哲学」とは訳さず、「知恵の操作」と言語のニュアンスを文脈に合わせて工夫して訳しました。これは良い感覚だと思います。いま私たちが哲学と呼ぶからと言って、ここで言っているものが私たちの呼ぶ哲学と同じわけではありません。当時の言葉を現代の解釈の言葉で訳してしまうと誤解を招くし、誤訳にもつながります。
 
ギリシアはアテネのソクラテスが、相手を言いくるめるために知恵を使うのではなく、知を愛することが大切だ、と命を懸けて訴えたのがフィロソフィアの始まりです。知の愛が探究の目標であり動機である、知は愛すべき友なのだ、とプラトンが言いたかったのであろう、そのフィロソフィアを「むなしいだまし事」と片づけることはできないでしょう。
 
ではここで否定されているフィロソフィアとは何でしょうか。キリストに於いては宝となるべきソフィアがを、人間的な思惑で恣意的に操作してしまうこと、分かりやすく言うと理屈をこねて福音を曲げてしまうこと、これに人が惹かれて行ってしまうことが悔しいのです。キリスト教神学やその論争、異端の中でさらに実現していった、人間的な理屈の信仰です。
 
今もなお、自分の理解や感情に聖書を従わせているような読み方や教義がそこかしこに見られます。人間はこの罠に容易にかかるし、それに騙されてしまうものなのかもしれません。聖書を正しく読んでいるのは自分だけだ、と言わんばかりに、他人を蹴落とし、せせら笑い、聖書はこう言っている、と独り善がりの宣言をする団体や個人がうようよいます。
 
例によって「結ばれて」と訳すのが新共同訳とフランシスコ会訳。カトリックの伝統なのでしょうか。キリストにあって、あるいはキリストの内で歩め、で十分だし、読書の受け止める幅を広くして戴きたいところです。キリストという地に根を下ろすことが必要なのであって、その上でキリストに従って、あるいは基づいて、歩んでいくように促されています。
 
かの人間的な知恵の操作は、キリストの上にあるということとは違うのです。たとえその知恵が、たとえば現代的に言えば科学的な知見が、コスモスの原理に基づくのであったとしても、福音はそれにより決定されるものではないと言っているのです。さらに具合の悪いことに、自分の利益や自分の誇りのために、理屈をつけて勝った気になる者もわんさといます。
 
哲学的な用語が多用されています。当時の思想風土による議論を意識しているように見えます。もしかすると私のように、かつて哲学を学んだような人物がこの手紙を綴っているのかもしれません。キリストを受け取ったまたは受け容れたにせよ、とにかくキリストを受けることが第一です。求めるエロスの働きを珍重せず、与えられた恵みによって、キリストという土地に立つソフィアとグノーシスを見出しましょう。


Takapan
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