独善の構造

チア・シード

コロサイ2:16-23   


キリストにあって歩め。その復活の力により生かされるのだ。それ故に、と筆者は迫ります。この箇所では、私たちの知らない宗教思想を気にせざるをえなくなります。研究者がいろいろ調べてくれているに違いないのですが、推測の域を出ないのかもしれません。当時こうした思想が、キリストの共同体を取り巻いていたのであり、教会にとり脅威だったのです。
 
その意味では、勢力の大小の問題ではありません。歴史上大きな異端かどうかということがすべてではありません。信徒の中に、それに惑わされる人が現れたとしたら、それだけで大問題となるのです。教会を根底から崩す恐れのあるもの、それは政治的な圧迫であるばかりでなく、信仰する魂を奪い去る虞のあるものでした。
 
どうやら文法的に理解しづらい表現も複数見受けられるようです。そのため、内容的にも形式的にも分かりづらくさせてしまうものなのですが、もしかすると、こうした不自然な言い回しそのものが、その宗教思想の用語であったのかもしれません。考えてみれば、キリスト教用語というものも、世間の日本語とは一線を画したものとなっています。
 
謙遜で人格者のように見えるからと言って、そのことの故に神の前に義であるという訳ではないことは当然でしょう。天使を認めるのは聖書世界からすれば当然であるようですが、いつの間にか心が天使たちに囚われてしまっていることに気づかないでいることはありえます。その後キリスト教の歴史はやはりそうした怪しい経路を辿っているかもしれないのです。
 
いや、今もあるような気がします。耳の痛い話です。キリストと口にはしても、実はキリストに結びついていないとすれば、ブレインなしで体が生きるはずがありません。世にはびこる霊の働きにより、たとえば禁欲が美徳であるかのように思いなしてしまいます。すでに新約聖書の書簡が、それは福音の的の中心を外れているということを、ずばり指摘しているではありませんか。
 
どうしてキリスト教の歴史は、これをその後冒し続けてしまったのでしょうか。いったい聖書の何を読んでいたのでしょう。あるいはいまもなお、そしてこの私も、そのようなことをしてはいないか、という視点をもつ必要があります。人間の教えを第一のものにして、神の告げたことをすり替えてしまってはいないか、よくよく見直さなければなりません。
 
苦行なんて、いくらでも転がっています。しかしもっと恐いのは、独善的な礼拝かもしれません。独り善がりという和語は漢語で独善と書きます。これは自覚が困難なのです。私は私の言動を善いと思うからこそなすのであり、その判断自体が客観性や公共性を持ち合わせていないということに、判断基準である自分は気づかないのです。
 
主体が自分にしかない場合、自分の間違いは永遠に気づくことがありません。肉というのはそういうことです。自分自身がこうして世界の主体であり続け、いつしか完全に神をすら自分の支配下に置くようになり、しかもそのことを正当化していく独善が、最も恐ろしいことであり、悪魔の狙い目でもありえます。そしてこうした事態は、私が見渡す限りにおいて、確かに見出される事実なのです。私たちの外からの呼びかけを聞き入れないでいると、少々知恵のある人でも容易に、独善に陥ってしまうのです。


Takapan
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