キリスト賛歌に導かれて

チア・シード

コロサイ1:15-20   


この箇所は、明らかに一定の文書として引用されているとして、近年の聖書ではそれと分かるように表記するようになりました。賛美の歌です。神を称える歌ですが、中には私たち人間の心情を表すものもあります。また、人と神との関係に焦点を当てた形のものもありますし、自分の思いと無関係にただ主を称えるというだけなのもあります。
 
ただの飾りでなく神を称える言葉がここにあります。神はそもそもどういうお方であるのか、それをきっちりと見つめたい場合があるのです。それは誰にも伝わります。どんな情況でどんな気持ちでいるにしても、客観的であるように神について示すことが必要である場合もあろうからです。
 
キリスト賛歌は、信仰箇条のように掲げられた神への告白です。こうして引用されている部分を取り出したならば、ひとつの賛美歌として通用するものですし、実際そのように歌われていたのかもしれないとさえ思います。美しくまとめあげられたこの賛歌は、決して個人の思いつきではないだろうと推測されます。
 
人もまた神の似姿として造られたと言われていますが、キリストこそ真正の意味でそうであり、神のイコンであると断じています。あまり教義の解釈のことを考えずに読んでいきますが、「すべてのものが造られる前に生まれた方」あるいは「最初に生まれた方」はギリシア語で一語。シンプルな表現が、訳すと長々となってしまいます。
 
16節の冒頭では、すべてのものが彼において創造されたとアオリストで告げられていましたが、少し間を置いて、すべてのものを彼を通して、彼へと創造された、と完了形で記されています。過去から、現在と未来へと見渡す視点を感じます。未来のこともその時間の枠の中で完了している摂理の意味もこめられているのでしょう。
 
彼はすべてのものに先立ち、すべてのものが彼において保持されています。キリストと被造物との関係を、思いつく限りの精一杯の言葉で表現しようともがいているかのようです。しかしここで突如として、キリストが教会の頭であることが、ぽつんと現れています。まさに頭という言葉であり、隅の親石にも通じる表現です。
 
コロサイ書が教会の権威を背景に位置していることを思い起こします。復活のキリストを謳い、彼の内に何もかも充満しているというような神秘的に聞こえる表現とともに、ついにあわゆる存在者との和解について言及します。十字架の血が平和をもたらしたと言って、この賛歌を閉じることになります。
 
コロサイ書の書かれた時期、十字架はたんに忌まわしい死刑の面影だけでなく、パウロが強調したように、救いの象徴へと認められつつあったのかもしれません。キリストに従う者は、キリストと共に死に、キリストと共に起こされる信仰へと、こうした賛歌を通して導かれていったのでしょう。それはいまの私たちもまた、きっと同じなのでしょう。


Takapan
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