素人アモスが覆す

チア・シード

アモス8:9-12   


羊飼いのアモスだから、つまり祭司のようなプロではなかったから、その預言など大したことはない、あるいはプロに劣る、と見られがちです。それはちょうど、神学校さえ出ていればその話に信用が置け、取り巻きができるのであるが、そうでない人は何を語っても相手にされないというのと、似ているような気がします。
 
牧師という職業制度は、学校という権威の折紙ひとつで成り立っています。でも、新約聖書を見渡しても、どこにも、神学校を出なければ福音を語れないとか、教会を導けないとかいう話は見当たりません。アモスの職業は牧者です。「牧」という字が付くところが、どこか皮肉めいて聞こえてきます。アモスはちゃんと神の言葉を語っているのです。
 
アモスは「その日」を見つめています。祭司アマツヤに物を言うなと圧力を掛けられても屈することがありませんでした。見るべきものを見、言うべきことを言うというアモスの、肝の据わった態度は頼もしいものです。「その日」はどうなると言うのか。アモスは確かに主から言葉を受けているから、何をどう言われても、怯むことがないのです。
 
太陽は真昼に沈み、地は闇となる。これまで人間が当たり前だと考えてきたことが、すべて覆される。人の喜ぶ祭りは忽ち悪と変わり、歓喜の歌は哀歌となる。悔改めの姿を人々はとらざるをえなくなるし、決して剃るなと言われた髪の毛ももう意味がなくなる。あらゆる価値観が無となり、希望もすべて失われる。アモスは暗い未来を描きます。
 
ここにアモスが挙げた例だけで終わるのではないでしょう。これらはほんの象徴です。ひたすらそれは苦しみの日だというばかりです。この後、かろうじて救いはあるのですが、今はこの夢や希望がどれほど多くの人の生涯を狂わせてしまったことか嘆かねばなりません。人の歴史の中で、思いこみに走った者たちが道を誤り、また誤らせてきたのです。
 
神は、私たちの思惑や、常識としてきたことを悉く否みました。昔からの言い伝えも習慣も、人間の理解した神の教えも否定されました。私たちのなじんだ礼拝は本当に神の意に適っているでしょうか。私たちは、自分の思い込んでことを、いつの間にか神の心だと都合良く解していい気になり、実は己れを神としているようなことはないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります