誰も口を封じられぬ

チア・シード

アモス7:12-17   


大地震の2年前、ユダのテコアに住む羊飼いの一人アモスに、主の言葉が降りてきます。主に呼び出されたのです。主に呼ばれたのですから、そのまま素直に主の言葉を伝えます。イスラエルの裁きを告げたところ、イスラエルの祭司アマツヤは、ヤロブアム王に報告した上で、アモスを退去させに出向きます。ユダの国へ帰れ、と。
 v このベテルなる聖地には、二度と来るな、とアマツヤは言います。尤もなことです。分かれた国の預言者に対して、但しアマツヤはこれを予見者と呼んで単に未来を告げる者というふうに見下しているようにも見えますが、イスラエルのことをとやかく、しかも不吉なことを言ってほしくはない。そう思うのは当然といえば当然です。
 
アモスは純朴です。自分は預言者ではない、とアマツヤのあてこすりにも気づかぬかのように、あるいはそれを裏読みまでしたかもしれませんが、言い返します。主の言葉を預かる専門家などではない、そんな立派な者ではない、と言うのです。羊飼いであり、いちじく桑を栽培する農民に過ぎない。そういうアイデンティティの下に生かされているというのです。
 
それでも、主が主導権を以て自分を呼び出した、それは確かなことであると証しします。これは主からのものである、という確信がアモスにはありました。誰が何と言おうと、事実そうなのだから、確かにそういうものとして、そのように答えるしかない。アモスにとり真実はそれだけですから、ほかにどう言おうとも無理なのです。
 
そのとき、アモスの目に映し出された光景がありました。アモスはアマツヤにそれを告げます。それは、アマツヤ自身の惨めな姿でした。もはや祭司などという麗しい地位にあることはできず、汚れた家となり、家族も破壊され財を失い、汚れた形で死ぬというのです。それは捕囚された異教の地で野垂れ死にするような無惨な有様なのでした。
 
アモスに預けられた主の言葉は成就します。北イスラエルはアッシリアの捕囚に遭い、有力な人々はカナンの地からそちらに移住させられます。一家離散とアマツヤの捕囚とを預言したことになります。なんとも不気味な農民の言葉。主からもたらされる言葉を封じることは、誰にもできません。私たちにも、その言葉は預けられているはずです。


Takapan
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