アモスは預言者

チア・シード

アモス7:10-17   


アモスは自らを、預言者ではない、と言いました。プロではなくアマチュアだ、と。職業的預言者と言うとどこまで適切なのかどうか分かりませんが、アモスは羊飼いであると自ら宣しています。あるいは農民と呼んでもよいでしょう。ここでは、いちじく桑を栽培していたと言っています。生き方が違えば、見える景色も違ってくることでしょう。
 
アモスの目に映るのは、終わりの日です。終末を見据え、幻をいくつも呈します。何故幻かというと、終わりの日については人間はまだ誰も見たことがないからです。見ることができないからです。それを表現するには幻という形でしかできませんでした。頭で論理を組み立てて説得しようとするのとはまた別の有様となるわけです。
 
するとこれは、過激な描写となるかもしれません。王が殺されてイスラエルの民は捕らえられ連れ去られるというのです。少々のことなら、権力側も無視していられることでしょう。頭にきたのが祭司アマツヤでした。ヤロブアム王の許に人を遣わして、アモスがどんなに酷いデタラメを言っているかを、王に告げ口します。
 
アモスの発言をなんとか抑えようとしたことになりますが、王の権威をバックにするとアマツヤはお上を味方につけたかのように態度が大きくなり、アモスの前に出てアモスに直接イスラエルから出ていけと言います。なんとアモスは、南ユダ王国に住む身でありながら、北イスラエル王国の滅亡を説きにわざわざ出向いていたのです。
 
アモスを疎んじたのは、王というよりも、この祭司でした。アマツヤはベテルの祭司だったのです。イスラエルの捕囚などを世に広めて人々を動揺させるアモスが許せませんでした。確かに、やたらと危機を煽る声は、為政者からすれば迷惑でしょう。政治的情況が不安定であることを暴露することになるからです。反勢力を呼び起こすかもしれません。
 
かと言って、アモスを権力側が法的にあるいは力ずくで抑え込もうとしたのでは、民衆がんな不正義をする政権から離れてしまいかねません。圧迫したり逮捕したりするのを知らせると、政府への信頼が現象し、場合によっては全くなくなってしまうという可能性もあるわけです。
 
つまりこの南ユダからやってきた、農牧民アモスの声は当時無視していられいものとなっていたのです。エルサレムを嫌い、ベテルに誇りをもつ北イスラエル預言者たちは、エルサレムをよくは思っていませんでした。それで圧力をかけるのですが、それでもアモスは政治的な力と闘い、無駄なエネルギーを費やしたり、命を粗末に扱ったりはできません。
 
それでもアモスは、そんなアマツヤに将来起こる不幸な報いを告げます。そしてイスラエルも捕囚という不幸は避けられません。それは確実に起こると言います。幻にしても、主から受けたのですから、もう取り消せません。どんな脅しにかかっても怯みません。意地っ張りという意味でなく、主にただ従うだけだったのです。アモスはある意味、プロです。


Takapan
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