政治への声をアモスと共に
チア・シード
アモス5:6-15
これは「哀歌」(5:1)です。アモスはそれにより恨みや憎しみをもたらそうとしているのではありません。主眼は「私を求めよ、そして生きよ」(5:4)というところにあります。だから、ここでいま「主を求めよ、そして生きよ」と呼びかける言葉を受け止めましょう。でないと、主からの火が襲いかかります。裁きの火は、消えることがありません。
「テコアの羊飼いの一人」(1:1)である預言者アモスは、周辺諸国への断罪もさることながら、イスラエルとユダにも厳しい言葉を浴びせます。どこにも公正と正義がないからです。思えば、私たちもいま、この憤りを表に出して然るべきではないのでしょうか。但し、世にはそれを聞く耳があるのかどうか。「主が強い者に破滅をもたらす」というのに。
実感を伴って響く聖書の言葉を、私たちが告げ知らせることができるでしょうか。主が絶大な力を以て臨むのだ、と私たちは本当に信じているのか、問われます。私たちは「戒める者」であるはずです。「真実を語る者」であるはずです。だからこそ憎まれ、忌み嫌われてもよいのです。それほどに、悪と不正について叫ぶ者でありたいものです。
それは「背きの罪」だと叫ぶことです。この世情は「悟りある者」を沈黙させてしまいました。緘口令を敷かれたように、善良なる声を封殺することばかりを、政治は策しています。「まことに、これは悪い時代」なのです。しかしアモスのメッセージは「生きよ」というものです。そのためには、「善を求めよ、悪を求めるな」という言葉が直接的です。
それにより「万軍の神である主」が、「あなたがたと共にいてくださる」とアモスは強調します。神は、イスラエル民族を去ったのでもなく、棄てたのでもありません。ただ預言者は「主を求めよ」と告げるばかりです。私たちも、ひたすらそのことだけを世に訴えればよいはずなのに、それを言うのが馬鹿馬鹿しい、と引いてしまっていないでしょうか。
この書は「あの地震の二年前」(1:1)に発されたといいます。逆に言うと、この預言はやがて地震を、恐らくは大震災を結果としてもつのです。次第に幻想的な色彩を帯びるようになるアモス書は、人の不正と、正義に反する政策を止めるように促し続けます。私たちは、もっとアモス書について学び、範とするべきだと思うのです。