あなたが生きるために

チア・シード

アモス5:6-15   


あなたがたが生きるために。こうすればあなたがたは生きるのだ。善を求めよ、悪ではない。それは、主自身を求めるということでもあるのです。預言者の腸は煮えくりかえっていることでしょう。この世の不公平、理不尽さは如何ばかりか。羊飼いと称する預言者アモスがイスラエルのヤロブアム二世の時代に立ち上がったのは、イスラエルの震災を目の当たりにしてのことでした。
 
自然の災いを神の意志と見る思いは、今の私たちにすらあるわけで、当時の人々はなおさら強くそう思えたことでしょう。周辺の地はもちろんのこと、主を信じると宣するイスラエルの民の中にも、その災いの原因、すなわち悪があったのです。ここには将来の捕囚まで触れているため、予言したかのように書かれているという理解も成り立ちます。
 
だから主を求めよ。それは生きるためだ。そうすれば生きるのです。弱く貧しい者たちからの取り立てが人々を苦しめても、それは当然のことだ、そうすることが正義であるとすら考えている世の中。今の世も、同じ構造があるように見えます。どこに人間の進歩や発展があるのか知れません。本質は何も変わっていないのです。
 
染む気の罪と指摘してくるものは、単に方向を誤っているというばかりではありません。自分が誤っていると知っているなら、そしてそれを痛感しているならば、修正もしようとするでしょう。しかし確信してやっていたならばただの欺瞞であり、悪と理解していならば開き直りに過ぎません。こうした世は不幸です。
 
知恵ある者も、ついに沈黙してしまいます。よって無邪気に自覚なしに悪に勤しむ者たちは、益々はびこってしまうことになります。アモスは一人の王にすべての改善を期待することは諦めているようです。一人ひとりが神の命令を自分の問題として受け止めて、変わっていくよりほかないと考え、提言します。
 
世を支配する者、あるいは権力者たちには期待をかけていません。これは過去の話だけでしょうか。今の政治や国家だけでしょうか。教会組織にこそ適用しなければならないのではないでしょうか。アモスはユダヤの宗教連合社会の中に訴えていたのですから。人から発するもので人が動き始めるとき、これが廃れます。主が共にいます故、人は生きるのです。


Takapan
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