一人の人間と世界を変えた

チア・シード

使徒9:1-9   


ステファノの死の場面で、若者サウロが初登場します。その意味は直ちに明らかにされるのではありませんでした。ユダには、登場する瞬間に説明が入っていたのですが。サウロは少々その名を出した後、一章分を隔てて、突如主役に躍り出ます。キリストの弟子たる信徒を引きずり出して牢へ送る上に、脅迫と殺害を目指していたと書かれています。
 
いよいよこれは止めねばならぬという事態であったため、神が介入したのでしょうか。神はステファノの命は助けませんでしたが、このタイミングで、サウロを食い止めました。キリスト教はここでは「道」と称されています。いまなら「宗教」というような概念を表す言葉がなかったのです。日本人も、芸事や武道に「道」の文字をつけて呼びます。
 
さあ、暴力的にエスカレートするぞというその時、天からの光が及びます。これまでのサウロは、華やかなエリートコースを順調に歩んできたはずでしたが、その歩みには光がなかったかのようです。真の光は、いまここでイエスがいる中でサウロに降り注ぎます。それはサウロの視力を一時奪いました。暗闇の中でよく考えてみよ、と言うかのように。
 
イエスの声は、「サウル」と呼びました。ヘブライ音に近いはずです。ギリシア文字で「サウル」と拾ったのでしょう。「サウル」は「シャウール」というのでしょうが、ギリシア表記で「シャ」が表せません。人名ということで「サウロス」としたと思われますが、語尾が取れると「サウロ」となり、以後使徒言行録では13章まで「サウロ」と続きます。
 
イエスは、幼い頃から呼ばれ慣れていたであろう「サウル」でその名を呼んだと想像してみます。心の根柢にあるアイデンティティに響く呼び方だったのではないか、と。サウロは主と、声において出会いました。正に、呼びかけられました。外から力が及びました。自分の中で変化が起きたのではなく、自分の外から、力が及んだのです。
 
立ち上がれ、という命令の語は、復活でもあります。これまでの人生について一度終わりを刻み、新たに蘇った意味で生き始めることを暗に指しているのでしょう。人々のいる町へ入れ。人から逃げではいけない。近くにいた者たちもこの声を聞いたといいますが、パウロの手紙での証言とは食い違っていますが、とにかくサウロの視覚は奪われました。
 
人に引かれなければ歩けなかったわけですが、それも示唆的です。自分では歩けないのです。三日間、陰府に下ったような生活を強いられることになりました。こうして一人の男の人生が変えられました。しかしそれは、世界史が変わったことをも意味することになります。よからぬ企みの途上も、主イエスが介入して、人の世はどうとでも変わるのです。


Takapan
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