見落としていたこと

チア・シード

使徒9:1-9   


脅迫し、殺そうと意気込んでいた。人を殺すことに意気込んでどうするかとも思いますが、これがこのユダヤ教の若きエリートの心理でした。大祭司の折り紙付きで、中枢側が指令していたことは間違いありません。イエスの福音が人を生かすものである一方、律法による正義は人を殺すものであったことがここに象徴されているのではないでしょうか。
 
当時キリスト教という名称はまだなく、クリスチャンというのも軽蔑のためのものでした。日本語でも精進し追い求める過程を「道」と言いますが、ギリシア語の「道」という語が、キリスト教と今なら記す場面でよく使われています。この道に従う者は、男女を問わず縛り上げました。きっと女性のほうが多かったからだろうと思われます。
 
エルサレムに連行するというのが目的ですが、ルカは先に「殺そうと意気込んで」と記していました。このような背景を、パウロの回心の場面から、私たちは切り落としてしまっていなかったか、反省させられます。イエスはパウロの蛮行を止め、将来の伝道者としたのは確かですが、信徒、とくに多くの女を守った点を忘れてはいけません。
 
この場面のその後のサウロへのアプローチは、私たちが繰り返し耳にした通りです。個人的なその体験を、私たちはもっと普遍的に味わうこともできます。しかし、このサウロのために苦しめられ命を狙われていた信徒たちの姿を、今日はもっと前面に掲げて思いやろうではありませんか。ユダヤ教の中で虐げられていた者がさらに殺されようとしたのです。
 
一人の目立つ優秀な才能ある人物の陰に、多くの声なき弱者がひしめいていたこと、神に助けを祈っていたことに、思いを馳せないではいらりません。三日間死を味わったサウロであったかもしれませんが、日々殺されていたような人々のことに対して、もっと目を向けていなければならないと思うのです。
 
私たちもまた、このサウロのような英雄気取りなのでしょうか。そこに身を重ねたい欲求は、自分を特別扱いしがちな近代人にはありがちです。けれども救ったのは天からの光、上寄りの力でした。サウロをも救いましたが、サウロに殺されようとしていた、力も声もない多くのキリストの弟子たちを、神は救ったのです。


Takapan
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