パウロの復活

チア・シード

使徒9:1-9   


起きて町へ入れ。イエスの霊がこれを告げます。それとも、霊と呼ぶのは間違っているでしょうか。イエスがサウロに呼びかける。これで十分でしょうか。サウロという名はすでにルカが、ステファノの殉教の場面に伏線的に登場させています。それにどう関与したか、定かではありません。ルカの執筆時、すでに伝説化していたであろうパウロの初登場は、ダーティでありましたが、何か臭わせる程度にぼかしてありました。
 
パウロはアジア各地に教会を作りました。その手紙は信仰の基として尊重されていたことでしょう。パウロ書簡が福音書の成立にどのように関わったのか、私には分かりませんが、パウロの名による手紙も描き続けられている中でしたから、パウロの名に一定の権威があったことは否定しようがありません。教会の理論的な支柱となっていたことでしょう。
 
パウロはどのようにしてイエスと出会ったのか。これを記録しようと意図したルカの存在は、私たちにとり大きな意味をもつことになります。疑いなく、パウロはイエスと出会ったのです。それは本人の書簡の中でも記されており、あくまで他人の目から調べたルカと本人の体験談とは齟齬がある点は否めませんが、概ね一致している様子が認められます。
 
とにかく、パウロはこのまだサウロと呼ばれていた時期に、イエスと出会いました。「起きよ」とのことばを神から受けました。これは復活を示すときにも使われ得る語でした。これまでのサウロはこれにて死にました。地に倒れ、地へと落ちたのです。だから立ち上がれ。復活せよ。町へ入れ。ポリスに入り、人々の中へ入れ。やがてサウロは、キリストを中心に置く共同体の中へと促されます。
 
おまえがなすべきこと、作ることは、すべて主が告げるから案ずるな。おまえはもう神が支配しているのだから。おまえは神の国となるのだ。このサウロへの声は、周囲の人々にも聞こえたとルカは記録しますが、22章でルカはパウロが語ったとするものの、声は聞こえなかったとしています。矛盾していますが、きっとこれを人格的な交わりの中に神のことばとして受け取り聞き入れたのはサウロ一人であった、ということなのでしょう。サウロはイエスと出会い、呼びかけられる自分への声をことばとして聞いたのです。
 
起き上がったものの、サウロはまだ目が見える状態ではありませんでした。イエスの三日の時のように、サウロも三日を経験します。この後に、キリストの名による共同体、すなわち呼び出された者たちの集まりである教会へと導かれることになります。そこで初めて、見える者とされるのです。サウロという名とパウロという名とが明確に線引きされるものではないし、区別するのは早計ですが、やはりここで、古いものが死に、新しいいのちに生かされる復活を見たいものです。それはキリスト者の誰もが、実は経験しているはずのことなのです。この事例ほどに劇的ではなかったとしても。


Takapan
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