散って行った人々にできたこと

チア・シード

使徒8:4-8   


キリスト者が、ユダヤ人の敵視するサマリアの町でキリストを伝え、人々がそれを聞き、奇蹟を見て喜んだ。言ってしまえばこれだけの粗筋です。このことは、次の魔術使いの考えの誤りを示すこととなり、さらにエチオピア人の改宗者がメシアを知る場面を準備することとなりました。いわば執事のフィリポの活躍を描いた章の始まりです。
 
主を信じる者を通して、つまり使徒でなく一般信徒を通して福音が拡大したこと、異邦人へ伝えられていく様子が描かれます。ただ、注目すべきは、冒頭の「散って行った人々」ではないでしょうか。使徒たちのほかは皆、散って行った(8:1)とありますから、散ったのは、ヘブライストもいましょうが、ヘレニストは全員散った中に含まれていることになります。
 
これは何故でしょうか。田川建三は、使徒たちが当局と通じていたことが明らかだ、と指摘していますが、ルカが何らかの事情を知っていながら、このようにそれを明かすことなく、異邦人への宣教が花開いたとして描き、読者の目を奪ったというのならば、そのお手並みは見事と言うほかありません。とにかく使徒たちはエルサレム教会を保持していきます。
 
ユダヤやサマリア、そして地の果てまでも福音を拡大したのは、ヘレニストが散ったことによる、と概ね見ることにします。しかしそれは縁のない地域に伝えたというよりも、そもそもヘレニストとして異邦社会に生活基盤をもち、ギリシア文化の中で育った人々が、自分の生活世界に戻って福音を語るよう導かれた、と捉えることもできるでしょう。
 
教会共同体の内部で事足りるとするのでなく、その外で、つまり自分が社会生活を営んでいるところで、福音を伝えるなど、何かができるというわけです。汚れた霊が出て行き、動かなかった体が動くようになる。たとえ文字通りに考えなくても、悪しき思想に支配されていた人が回心したり、閉じこもっていた人が外へ開かれていった、と見るとどうでしょう。
 
それはそのまま、私たち現代の社会でもありうること、できるかもしれないことではないでしょうか。教会で神の言葉を命として受け、自分の生活する社会に戻り、神のしもべとしてできることをする。この奇蹟はもっと見直されてよい現象となると思われます。主の日の共同体生活から、平日の生活への視点を養うことも可能になるはずです。


Takapan
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