金で手に入れられるのか
チア・シード
使徒8:14-25
使徒である「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」(8:5)のですが、このとき、魔術を使うシモンという人がいました。「自分を偉い者のように言い触らしていた」(8:9)のです。人々の目が開かれて、フィリポの告げた福音によって、人々は洗礼を受けるに至りました。「シモン自身も信じて洗礼を受け」(8:13)ました。
フィリポの手が起こす奇蹟に、シモンは目を見張っていました。「サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞」いて、エルサレムの使徒たちは、どう思ったでしょうか。ユダヤ人にとり、サマリア人は、許しがたい血筋の者たちです。イエス自身は、サマリアの女へ福音を届けましたが、サマリアを避けていた様子がないわけではありません。
但し、サマリア人をたとえに持ち出しています。信じたという報告では、まだ十分ではありませんでした。ペトロとヨハネがサマリアへ遣わされます。そして按手により、人々に聖霊が降ったことをルカは伝えています。シモンは、これを見ていたのです。フィリポだけではありません。奇蹟が次々と目の前で起こります。
この業は、偶々フィリポが有っている力によるというだけのものではないようです。不思議な業を操る自分としては、この奇蹟の力も身につけたいではありませんか。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください」と言って、シモンは金を差し出したのでした。これに対して、ペトロは完全に怒りました。
キレたと言ってもいいでしょう。そのすべての言葉をここに挙げるのは控えますが、日本語訳はまだ上品であるようにも見えます。徹底的に糾弾した、きつい言葉であるように見えます。「神の賜物が金で手に入る」など、現代でも論外ではないでしょうか。おまえの「心が神の前に正しくない」から「悔い改め、主に祈れ」とまくし立てました。
殆ど呪いのような表現が、そこに並んでいます。シモンは震え上がったに違いありません。馬鹿なことだ、自分たちはこんなシモンのようなことを言うはずがない、などと私たちは高を括っていてよいでしょうか。神の前に悔い改めず、罪の自覚もないままに、教会の牧師になりたい子どもの頃からの夢のため、専任牧師にいきなりなった者もいるのです。