これはステファノの殉教なのか

チア・シード

使徒7:54-60   


ステファノは、ヘレニストの執事の一人として選ばれ、事務的な役割を果たすように任ぜられました。しかし知恵と霊とでユダヤ人と議論して負けなかったように記されています。ローマで奴隷の経験のある関係のユダヤ人の教会があり、ステファノはそのメンバーと議論になったと書かれています。それで恨みを買い、偽証によりサンヘドリンへ引き出されたのです。
 
ステファノはそこで弁明します。イスラエルの歴史を長々と語った後、先祖たちが神に逆らった点と、今ユダヤ人がイエスを殺した点とを重ねることで、人々のリンチを促すこととなりました。憎悪の塊となったユダヤ人たちは、神の右に立つイエスを見るステファノに襲いかかります。そんな冒涜の言葉は、聞くと耳が汚れるとばかりに両手で耳を塞ぎ、都の内での汚れを避けるために門の外へ引きずり出します。
 
人々はステファノを殺害しました。正式な裁判で死刑にすることができない体制だったはずで、そのためにイエスは裁判の過程が複雑だったのですが、ステファノのリンチについては、当局は問題にしなかったのでしょうか。荒れ飛ぶ石の雨の中で、ステファノは、イエスのような祈りをします。すでにイエスが立って彼のところに迎えに来ていたのでしょうか。霊を委ね、罪を人々に負わせないでくれと祈るのでした。
 
ユダヤ人がイエスを殺した。ステファノのこの言葉はユダヤ人たちの怒りに火を点けたと思われます。そしてユダヤ人たちは聖霊に逆らっており、ステファノは聖霊に満たされていたとルカは明確に色分けをします。ただ、ステファノはユダヤ人たちにそれが罪だと突きつけたわけではなかったようです。ステファノ自身、自分を殺す者たちを断罪しているわけではないのです。
 
ところで、ステファノといえば、この殉教の場面が有名です。というより、この場面しか、教会の礼拝説教では取り上げられません。もしかすると執事を選ぶときに名前が登場することがあるかもしれませんが、ステファノについての説教はこの殉教の場面です。しかもユダヤ当局の若きエリートとしてのサウロ、すなわちパウロまでも登場しています。
 
しかしいま確認したように、ステファノ自身、ユダヤ人を呪ったり、そこに罪を着せたりしてはいません。ならば私たちもステファノのように殉教しろということでしょうか。敵を赦せということでしょうか。ここからのみメッセージが取り次がれるとき、一体そこに何を聴くように促されているのでしょうか。
 
当のステファノ自身は、何を私たちに言いたかったのでしょう。実に7:2から7:53にわたる、壮大なイスラエル史と人間の位置づけ、これをステファノは延々と語ったのでしたが、これを顧みず、石を投げられるシーンだけで終わるべきでしょうか。ステファノが命を賭けて語った説教には少しも耳を傾けず、私たちは殺害場面ばかりを眺めて私たち自身を慰めるのであってよいのでしょうか。


Takapan
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