ヘレニストたちの立場

チア・シード

使徒6:1-7   


ヘブライ人に対してヘレニストから苦情がありました。教会内の不和がひとつもないことなどありえないでしょう。たとえ皆が「一つ」であったと記し続けたルカであっても、嘘は書けません。パウロとバルナバとの諍いも描いたのです。パウロとエルサレム教会との間の気まずさも、ペトロへのパウロの非難も、次々と明らかにしていくからです。
 
しかしこれらは、次のステップへの大切なきっかけとなる出来事であり、いわば、人間的に見ればまずいことが起こったが、これは神の計画の故であって、神はこれを越えたところにすばらしい結果を用意しておられた、という筋書きのための出来事なのです。敵役のいない恋愛ドラマは凡庸でつまらないでありましょう。
 
人の醜さは神の美の手段となります。その逆ではありません。神々の争いが人のためになったなどという、ギリシア神話にありがちな設定を当てはめることはできません。ヘレニストたちが差別を感じていたとなると、教会は落ち着きません。せっかくユダヤ当局の主軸が、ガマリエルの発言を通じて教会に対して穏やかな態度を示すことになったところで、しっかり立て直すチャンスになるでしょうか。
 
ヘレニストのやもめがよくない扱いを受けたと説明されています。ただでさえやもめの立場は厳しいものがありました。教会内だから劇的に改善されているということもないのでしょう。発言からすると食事に関することのようです。このようなことの処理のために、7人が選ばれます。7という数字に意味をもたせていることは確かでしょう。使徒の12人という数字と重ねて、重要な数字が揃います。
 
これはいわば執事です。しもべを意味します。聖書の言葉を扱うほかに、事務的な責任を扱う執事が選出され、後の教会制度の範となったと言えましょう。プロテスタント側からはまさに執事ですが、カトリックならば助祭に相当するでしょうか。役職名がここに記されていないため、却ってより臨場感のある歴史的記述となったように言えるかもしれません。
 
7人の名はヘレニストと目されます。按手は当時からよく行われていたと思われます。専らヘレニストの名ばかりだということにも探れば意味がありそうです。説教はユダヤ人にしか認めないという線引きであったのではないか、と穿った見方もできるでしょう。ヘレニストは実務的な領域で奉仕をすればよい、と枠をこしらえようとしたのだ、と。
 
ルカは、教会のごたごたを描こうとしているわけではありません。それを乗り越え、神の言葉が広がってゆくありさまを伝えるのが目的です。エルサレムにおいてキリストの弟子が増加していくという描写は不自然であるかのようにも見えますが、ユダヤ教が危険視されていった中で、ユダヤ教でないという理由でいくらか安心できた時代もあったのではないかと推測しておきます。
 
このキリストの道の人気の理由は何でしょうか。奇蹟が行われたからでしょうか。人々がユダヤ教ではローマに敵対視されるために、新しいユダヤ教としてのキリスト教の仲間に首を突っ込んでいたのでしょうか。ここに、祭司までが仲間に加わっているとされるのは、尋常なことではないと言えます。しかしここにも、ヘレニストたちの社会事情が絡んでいないとも限りません。


Takapan
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