最高法院とは大袈裟か

チア・シード

使徒5:27-32   


使徒たち、とこの記述は名前が具体的に明かされません。ひとりペトロの名だけが出て来ますが、ほかに使徒が複数いたことが分かるだけで、誰とは分かりません。先にペトロとヨハネとの2人が目立つ行動をしていましたが、今回は伏せられています。ルカに何か意図があったのか、隠すべき事情があったのか、そのあたりはなんとも分かりません。
 
使徒たちは最高法院にまで引き出されました。アナニアやサッピラの殺害容疑ではありません。ペトロの癒しの業はずいぶんと評判になっていました。それで大祭司やサドカイ派が妬みに燃えて使徒たちを捉えたのだと言っています。ところが天使が牢から使徒たちを解放しました。神殿で教えていた使徒たちは再び捕縛されます。手荒なことはなかった、として。
 
イエスの弟子たちは、どうやら周囲ではただならぬ存在になっていたようです。聖霊降臨の日に三千人が仲間に加わったというのもまんざらオーバーではないようです。エルサレム中に彼らの主張は知られるようになったでしょう。だから当局も、民衆から石が飛ぶのを恐れて使徒たちを穏やかに最高法院に連行したのだと記していたのです。
 
あの男の名、つまりイエスの血を流した責任を、当局に負わせようとしていると大祭司が使徒たちに尋問します。ユダヤ人一般の責任というよりも、サドカイ派などの宗教的権力者がイエスを殺害したのだ、というテーゼが定着することはままならぬ、と当局が危機感を抱いたというところでしょうか。影響力を無視するわけにはゆかなくなっていたのです。
 
私たちは、この聖書箇所を開くと、どうしても「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」が目につきます。そしてイエスの復活について「わたしたちはこの事実の証人」であると勇ましく主張するペトロの姿を強調し、私たちもこのように人ではなく神に従いましょう、私たちはキリストの復活の証人なのです、と締め括りたくなるでしょう。
 
待ってください。ここの強調は、時に危険を招きませんか。地上社会の常識に背を向け、正しい教会の指示に従いましょう、という空気をつくり出すとしたら、すっかりカルト団体になってしまいます。どうバランスをとったらよいでしょうか。使徒たちはここでいわば脱獄をしたのです。それでも公に出ていたので間抜けにもまた捕まってしまいました。
 
脱獄した使徒たちが今度はユダヤの宗教的最高組織の真ん中に立たされます。民衆も使徒たちに共感していたのか、あるいは民衆がたんにユダヤ当局に反感を抱いていたから使徒たちをも守っていたのか、どちらかに決めるのは難しいものです。ただ一目置かれていたようなので、イエスが復活したという証言は広まっていたものと思われます。
 
ペトロや使徒たちは、イエスが復活した、と人々に告げ知らせていました。民衆も、信じたかどうかはともかくとして、復活ってあるのかしら、くらいの話題にはなっていたことでしょう。使徒たちを民衆が、でたらめ言うな、と迫害していたのではないし、何より奇蹟の力で癒しの業がなされていたので、人々は使徒たちを歓迎していた面があったはずです。
 
そこでサドカイ派を含む当局です。サドカイ派は実務的で政治的な側面の強い宗教組織であり、その教義の中では復活はないとしていました。その点でファリサイ派との意見の相違があったことが知られています。つまり、使徒たちの言うようにイエスが復活したことを人々が受け容れるということは、サドカイ派の思想を否定する空気が広まるということでした。
 
その点で、当局は危機感をもっていたのではないでしょうか。イエスの死そのものは、法的に手続きがなされたのだと言い逃れることができたとしても、復活がないなんてサドカイ派は嘘を教えている、と民衆に背を向けられることはダメージが大きすぎます。復活が事実でありあるいは信じられると、サドカイ派当局への信頼がなくなってしまうのです。
 
妬みにかられて捕まえるというように説明がありましたが、たんに心情的な理由などではありません。サドカイ派の存在そのものを脅かす教義が広まろうとしていたのです。政治が根底から揺り動かされようとしていたのです。イエスの復活を証しすることは、それくらいに世界を大きく変える証言であったのです。私たちはどうでしょうか。


Takapan
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