ここにある牢と証人として生きる道

チア・シード

使徒5:17-32   


公的な牢に入れられた。これは事件です。前科がつき、処罰されます。使徒たちとは誰か、名前がないので分かりません。ペトロやヨハネなら、ちゃんと出してくるので、他の使徒なのでしょう。あるいはルカ自身調べがついていないのかもしれません。伝説のようなものとして伝えられたことを記事にしているという可能性もあります。
 
私たちとは無縁な世界のようですが、そうでしょうか。私たちは社会的な何かに束縛され、自由にできないということがあります。自分の側の責任であることもありますが、社会的人為的に動けなくさせる制約や制圧があるとも言えるでしょう。私たちがいまここで公の牢に入れられているかもしれないと気づくことはあるでしょうか。
 
私たちはその中でどうすべきか。歴史の記録としてのこの使徒たちの営みから知ることがあるに違いありません。人が活動しない夜、主の天使が牢の戸を開けます。私が何かをして脱出したのではなく、一方的に主の力が扉を開きます。そして私を、束縛の狭い域から外へ連れ出してくれます。なすべきは「行く」こと。行けと命じられます。
 
それから世人の耳目の集まるところで「立て」と言われます。もう隠されている必要はありませんし、閉じ込められることもありません。立って、命の言葉をすべての人々に告げるのです。まだ夜が明けきれぬ中、その言葉に従う弟子たち。脱け出し方は尋常ではありませんでしたが、心が解き放たれるありさまはまさにこのようであると言えるでしょう。
 
世が私を制限したつもりでも、ここにはすでに自由があります。これを再び制しようとする権力や勢力が及んだとしても、もはやそれには屈しません。そんな教えを語るのをやめよ、世に罪があるなどと謂われのないことを吹聴するな、と脅しにかかっても、ペトロたちが答えます。それは人の論理、高々人間の自分本位な願いに過ぎないではないか、と。
 
私は神の道を行く。神の示す道に従う。この神は私のみでなくあなたを救う方でもある。あなたが私と同様イエスを殺したことも確かですが、しかし私が赦されたように、あなたもまた救われているのです。私はあのイエスに出会いました。救いの様を目撃しました。だからこれを証言します。このことの証人として私はいまここに立っています。
 
人々に憎まれようと、本当にあったことを告げるのが証人です。それは命懸けのこともあり、証人という語は殉教者を意味する言葉にもなりました。しかし語るのが命の言葉であるならば、それはまさに命懸けであるのは当たり前です。私自身も、そしてあなたも共に生きるため、また生かされるために、目撃証言を止めることがないのです。


Takapan
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