仲間にならない人々

チア・シード

使徒5:12-16   


心を一つにして・誰一人・一人残らず。相変わらずルカの記述はオーバーなのですが、すべての人が、のように論理的ではない表現をとることについては、多くの人はもう慣れていることでしょう。少し割り引いて受け止めてよいと思いますが、いま、「ほかの人は誰一人あえてその仲間に加わろうとしなかった」というところに注目しようと思います。
 
すでに自分の財産をも共有のものとして差し出すという共同体が形成されていました。そのルールに背いた夫妻が神罰のように不審な死に方をします。もしそのことが一般に知られていたら、社会問題となりかねません。もし今そんなことが起きたら絶対に疑惑の眼差しで、人々はその教団に、気味悪がって近づかないに違いありません。
 
確かにそこにしるしと業が何かあって、知られていたとしても、それだけで人々が近づきやすいとは限りません。ただ、民衆はこの場合、この集団に対して称讃を惜しまなかった様子が記されています。気味悪がるという心配は杞憂に終わるようです。信じる者がますます増えていったと書かれていますから、教会は大丈夫のようです。
 
けれどもここで読者は首を捻ります。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」のに、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とはいったいどういう意味なのでしょうか。答えは一つしかありません。信じる人数は増えたが、共同体の人数が増えたわけではなかった、ということです。これは記憶すべき事態です。
 
教会員が増えない、と現代の教会は嘆きます。伝道しなければ、という思いは、そのまま教会員を増やさないと教会が消滅するという危機感を彷徨っています。礼拝に加わる新しい人も起こされず、時代のみならず教会の中に閉塞感がどっしりと居座っています。しかし「敬虔なクリスチャン」とよく言われる、迷惑なフレーズも満更ではないように思えてきます。
 
というのは、自分なんか敬虔ではないし、とそれを否定したとしても、言ってもらえるならばそれはいいことではないか、と思うのです。教会に行く人、イエス・キリストを信じている人は、敬虔なイメージで見られている。好意的に見られているのであれば、それは大いにありがたい、結構なことではないか、と捉えてみたいのです。
 
ペトロの影に触れたら病は癒される、そんなふうにも評判はエスカレートしていました。キリスト教が好意的に受け取られ、心が現れる、癒される所だと見なされていて、よい神さまだと信用されたなら、たとえ会堂に入って来ず、教会員にならなくてもよいのではないか。会員の数で伝道を量ろうとする思い込みによる発想を、捨ててしまいませんか。


Takapan
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