信仰の要はイエス・キリストの名

チア・シード

使徒4:5-12   


イエスはしばしば、安息日に癒やしの業を行いました。そのために、当局から目をつけられていました。イエスの復活を経た後、使徒言行録でペトロとヨハネは、足の不自由な男を癒やしました。それは安息日ではなかったので、そのことで当局から睨まれたわけではありませんでした。でも、いま取り調べを受けています。
 
「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えている」(4:2)からです。二人は、お偉方の真ん中に立たせられています。「何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか。」私たちなら、こう尋ねられて、何と答えるでしょうか。「ペトロは聖霊に満たされて言った」そうです。私たちも、そのようでありたいものです。
 
これは、イエス・キリストの名により、イエスの権威に基づいたものだ、と宣言したい。復活を宣べ伝えているために、当局、つまりサドカイ派は憤っていました。復活という教義は、旧約聖書続編時代以来、休息に広まった考え方のようです。元来の律法の規定にはそれが見られません。サドカイ派の理解はなかなか原理主義的なようです。
 
そのことで当局は苛立っていたのでしょうが、ペトロの側では、足を癒やされた男のことだと考えています。「この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです」というのが、ペトロの主張の中核にあります。
 
キリストの証人は、このようにして、私たちの前にも立っています。ペトロは、このイエスの名にこそ救いがあり、他にはないのだ、と断言します。そして詩編118:22の言葉をペトロは持ち出します。「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった」という言葉です。福音書もこぞって引いている表現であり、よほど幾度も強調されたのでしょう。
 
この詩編は、初期の教会で特に重んじられていて、キリストこそ正にその要石だという信仰が強かったと思われます。恐らくアーチ型に両側から積み上げた石の頂点を、中心として留め押さえる石です。人々からは無用として捨てられた石も、要にあるとなると、全体を支える役割を果たします。世が捨てたイエスが、神の救いのベースだというのです。


Takapan
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