聖霊の冒涜/H1>

チア・シード

使徒4:36-5:11    


初期教会の財産の共有制については、詳しい説明がなされていますが、実際どのようであったのか、実感がもてません。文字通りに受け取る人もいますし、理想に過ぎないと片づける人もいるでしょう。ひとつには、描写というよりも教訓や基準として記されていると理解する途もあるかと思います。ただ、何らかの互助の仕組みはあったのではないでしょうか。他の手紙などからも、そんな想像ができるような気がします。
 
貧者や社会的弱者を取り込んで、教勢は拡大します。権力を前にしても怯まない生き方があることは、人々の心に訴えたのではないでしょうか。もちろん、そこに聖霊の働きを見るのがこの言行録の立場ではあるはずですが。ですから、ここでバルナバが模範とされたとしても、それはバルナバの名誉ではありません。
 
バルナバは後にパウロと旅を同行し、宣教を巡ります。どうしても書簡を遺したパウロが偉大だとされますが、実のところバルナバも相当な働きをしています。信徒献身者であるとするか、伝道者とするか、そこは現代と制度も考えも違いますから決めかねますが、このように私有財産を擲ったというのも肯けるものです。但し、先祖の土地を売ってよかったのかどうか、律法的には私はよく分かりません。
 
バルナバはレビ族であったとわざわざ記されています。パウロもベニヤミン族だといいますし、この頃にもまだ族名はユダヤ人のアイデンティティであったのでしょうか。それとも一定の由緒正しい家柄だということなのでしょうか。「慰めの子」という意味だというのは、実のところよく分からないそうです。原語の意味には、情熱的であったり激励を与えたりするようなイメージが伴うように見えます。パウロと意見が対立した後の事実からしても、熱意溢れる人であったのかもしれません。
 
バルナバの土地の売買については、次のアナニアとサフィラのエピソードをもたらす前提となっています。夫婦して、バルナバと同様に売った土地の代金を教会に低く申告したと言われています。どうしてペトロがそれを知ったのかの説明はありません。公的には脱税ですが、教会内ではいわば私法です。但し、それは神の定めた世界での出来事ですので、より厳しい処置がなされたことが窺えます。
 
ルカはこの背景にサタンの存在を指摘し、聖霊を欺いたのだと非難します。ペトロがそう告げたのですが、これは裁きの宣告でした。アナニアは死にます。この世での死がそのまま裁きなのではありませんが、イエスの言っていた聖霊の冒涜にあたるとルカは伝えたいようです。死体に触れると汚れるという律法はきっとまだ活きていたのでしょうか。若い衆、あるいは付き添いの者らが死体を運んで行ったと書かれています。
 
不思議ですが、三時間後とはっきり書かれています。調べた限りでは、日の出から日の入りまでの12分の1の三つ分ですから、現代とさほど変わらないと思われます。妻のサフィラが姿を見せます。例の代金についてペトロが尋ねると、妻も口裏を合わせた言い方をしたことが明らかになりました。
 
妻も死にます。訳語は二人とも「息が絶えた」と表現してあります。息が、あるいは魂が出て行くようなイメージを与える語ですから「息を引き取った」のほうが近いかもしれません。神の命の霊が離れてしまったものと思われます。傍から見れば二人の死は怪死と見られますが、神の霊の問題として教会に警告を与える役割を果たす記事となったことでしょう。


Takapan
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