一人も貧しい人がいなかった
チア・シード
使徒4:32-37
見方によっては、5章のアナニアとサフィラの事件の前置きだとも言えるでしょうか。献金のときに虚偽の申請をして死に至ったという、厳しい事件です。信徒はそういうことをしなかったし、バルナバが土地を売った代金を正しくそのまま使徒たちに差し出した、とこの4章は結ばれています。だからこそ、背信行為が目立つこととなったのでしょう。
さて、現代の私たちは、この百年の歴史を見てきていますから、「すべてを共有していた」という点にサッと目が向かい、そこから離れられなくなってしまうかもしれません。遥か昔の聖書時代にも、20世紀のような共産主義があったのだな、と漏らす人がいます。これこそ原始共産制と呼ぶに相応しい、と驚きの声を挙げる人もいます。
けれども、計画経済があるわけでもありませんし、資本と労働という背景もありません。生産を問題にしているとは言えない以上、現代と結びつける必要は何もないと思うのです。では、どこに目を向ければよいでしょうか。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした」というのは確かに有力な注目点であるかもしれません。
けれども、それはわざわざこの「共有」の強調の場面で言わなければならないことではないでしょう。むしろいつもそうだったわけで、この場面に似つかわしいようには思えません。そのため「神の恵みが一同に豊かに注がれた」というのも、いわば当たり前の信仰を伝えるだけです。信徒たちが代金を持ち寄って分配していたことが強調されています。
その中核にあるのに、見落としがちな事柄は何でしょう。それは、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」ということだと私は思いました。文字通り、経済生活に於いてそうだった、ということを描写しているのには違いありません。しかし、私はそこにどうしても、心の豊かさや、信仰の力というものを重ねずにはおれないのです。
もちろん、心の貧しい者は幸いでしょう。自らの罪を痛切に自覚するのは、神の前に出た人間の必然的な姿です。そしてそのことで、神の豊かな恵み、救いの力が注がれるということも確かです。でもそうなると結局、貧しい人がいなくなることになります。共に恵みと喜びとを分かち合い、神の豊かさを共有するキリスト者が、ここにいたのです。