心も思いも一つに

チア・シード

使徒4:32-35   


第二の聖霊降臨とも呼ばれる事件があったことを記すと、ルカはこの時の情況を説明するかのように、信徒がどんな生活をしていたかを書いています。信じた人々は群れとなり、心も思いも一つにしたといいます。おもな邦訳聖書は、この「心」は一致していますが、「思い」は様々です。あるものは「魂」、また「精神」としたものもあります。
 
ギリシア語ではプシュケーです。これがプラトン哲学のような場面では、魂の不死などと言われ、霊肉二元論が展開されるわけですが、そのときは「魂」と訳します。ところが聖書では、肉体と霊魂のような二分で人間を捉えないので、体を伴うもの、肉体や生きていることつまり生命というレベルで捉えるのが普通です。
 
私見では、この記述を「生き方」を一つにしていた、と理解したいと思っています。「心と思い」は似かよっていますし、区別をしているとするなら、感情と理性のように受け止められましょうが、理性とプシュケーは同一視しづらい気がします。理性ならばヌースでしょう。でも、細かなニュアンスは私のような者に分かるはずがありません。
 
心と生き方を一つにしていた。考えていることと、実際に行動していることが、信徒の間で一致していたというふうに捉えてきたいと私は思います。でも行動そのものではありません。生活習慣としていたことでもいいし、あるいはその人の行動を支配する原理、ポリシーのようなものとして、それが表に現れるときの根拠になるとも見なされ得ます。
 
「精神」という訳は、私のイメージに最も近いかもしれません。スピリットという意味なら歓迎します。この箇所は、持ち物の共有から原始共産制ということばかりが関心を呼ぶのですが、それが詳しく扱われているのは、次章でアナニアとサフィラの事件背景の前置きだからであって、経済原理をここで説明しようとしているのではないはずです。
 
むしろ使徒たちが主イエスの復活をダイナミックに証言しているという活動に注目したいものです。それが、選ばれた使徒たちの生き方でした。そこまでできない信徒たちも、祈りにおいて同じスピリットでいたし、同じポリシーを懐いていたというわけです。私たちにも同じ霊が注がれているなら、証ししていく同じ生き方を心がけているでしょうか。
 
人々から好意を持たれていたことが、聖書協会共同訳では、豊かな恵みが注がれていたというように変えられています。注がれるというフレーズは脚色で、新共同訳の「結ばれ」同様、解釈の押しつけのようで不快感を覚えます。神から与えられる何かが先行することを掲げることにより、それに続き献げ財を共有する動きへと説明がうまく続くような気がします。
 
このような教会の生き方また制度は、その後長続きしたのでしょうか。それともルカはただ理想だけを描いたのでしょうか。あるいは、この文書がローマ帝国側の目に触れる可能性を前提した献辞などを鑑みると、何か体裁をつくったような記述であるかもしれません。教会の財源が決して怪しいものではないのだ、などというように。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります