多様性という常識を振り返ってみよう

チア・シード

使徒4:32-35   


心も思いも「一つ」にし「一人」として自己所有を主張しなかった。これは原語としては同じ語で、数としての「一」です。使徒2章で皆が「一つ」になる、というときには、数字の一ではなくて「同じ」という時に使う語でした。初期の教会が事実「一つ」であったかもしれませんが、そのように描きたかったのだと思います。ローマ高官の手前、教団はまとまっている必要があったとすれば。
 
聖霊により教会は導かれているはずですから、これがばらばらであっては困るという事情もありましょう。今風に、多様性に富んでいるということが良い響きでは受け止められない状況にあったと考えられます。そう、現代の教会はどうなるでしょう。もちろん世界へ拡がり、異なる文化的背景で建てられて存続する教会なるものが、画一的であることは不可能でしょう。
 
しかし、同じ一つの教会の中でさえ、多様がよいという価値観が常識の如くに扱われてさえいる時代です。聖書の思想と別の原理が教会を支配している、あるいは根底から支える基盤となっている、と警戒する必要はないでしょうか。果たして民主主義が最善であるのか。これをテーマ信奉することで、どこからか何からかずれが生じ、大きな誤りへと流されていく危険性はないのでしょうか。
 
挙げ句、聖書の原理を現代の認識で修正すべきだと聖書を相対化するのが、恰も当然の正義として君臨していくとなると、考えものです。もちろん、過去の解釈が正統であると決めるつもりはありません。人間の認識は常に相対的です。ある解釈が絶対不動のものと見なす必要はありません。コリント書でかぶりものに言及しているからすべてそうなのだとするなどの議論は成立しますが、その延長であらゆる規定を改造してよいのかどうか、ということです。
 
復古主義を助長したくはありません。原理主義を絶対化するのがよいとも決められません。いつの間にか悉く外れ背いてしまっていたとしても、新しい思想を第一にすればよい、というような転倒を認めつつ、中途半端に聖書の権威だけを恣意的に掲げるような、道具的扱いを施していやしないのか、と案ずるのです。
 
人間は実際、この歴史の中でそれをやらかしてここまで来ました。ナチスの例は必ずしも例外的なものではないと見なすべきなのです。私たちも、いつでもどこからでも、ナチスになれるのだ、と。
 
ルカは人の好意を集めていた点を強調しますが、貧しい者は誰もおらず、適切な分配がなされていたのだと記しています。教会では、著名な人物ですら例外とはされなかったというのです。持ち物は自分のものだと考える仕方はどこから来たのでしょうか。殊更に説明をしないだけに、この共有概念の由来や実態については、心が惹かれます。当時の人々の生活実感がなかなか知りえないだけに、生活世界の理解が求められると思うのです。


Takapan
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