波風立つ教会であっても

チア・シード

使徒4:23-31   


神殿で目立った活動をしたために、パウロとヨハネは当局に捕らえられてしまいます。そしてイエス・キリストの名によって語ってはならないと脅されて釈放されました。民衆の目が気になってのことでしょうか。この出来事を、二人は余すところなく仲間に語りました。仲間は、詩編の言葉を以て世の権力の無力さを告げ、他の者たちもそれに心を合わせました。
 
具体的には、ヘロデやピラトの名が挙がってくることになりますが、当局の脅しはそれなりに効いているのであって、この世の秩序を徒に無視しようとした訳ではありません。神の名、イエスの名を以て堂々と僕としての働きができるようにと祈り、恐らくはアーメンという声で皆の心が一つになったことでしょう。その時改めて、聖霊が降りました。
 
聖霊の降臨は、大きな揺れを起こします。揺れ動く中で、一人ひとりが聖霊に満たされ、神の言葉を語ることにためらわなくなりました。権力の脅しに屈しなくなるのです。教会共同体はこのようにして、活動の基盤が確実なものとなり、共同生活が始まってゆきます。すると直後に、隠し事、あるいは神の前での偽善が発覚するという展開を迎えます。
 
教会は波風の立つ処です。平穏で単調な生活が安定して続くものではありません。外部からの揺さぶりによって試され、それを克服したことで奇跡的な喜びにも包まれますが、たちまちまた内部がサタンに狙われます。問題を解決して新たな教会の歩みがようやく始まったと思ったら、高慢の霊が内部を突き崩しにかかることも、現実によく聞く話です。
 
最後に、この中でダビデが聖霊を通して言った、と告白しているところに注目しましょう。否、ダビデでなく、主が語ったと詩を評している点を見ましょう。世の権威の上に立つ方が語ったことなのです。聖書を本当にそのように捉え受け止めているかどうか、私たちは絶えず問われているのです。


Takapan
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