イエスと出会った弟子だからこそ

チア・シード

使徒4:13-22   


美しい門。ただの名称ではあるにせよ、そこですばらしいことが起こります。ペテロとヨハネが、足の不自由な男に癒しを施しました。それまでペンテコステの出来事はあったにせよ、おおっぴらに外に出る活動はしていなかったような書きぶりの中で、この初めての奇蹟で、キリストの弟子たちの存在を、当局に知らしめることとなりました。
 
しかも説教を始めます。隠れている状態からいきなりこの変貌はどうしたわけでしょう。危険すぎます。戦略があったのでしょうか。何かしら社会状況の変化を見据えてのことでしょうか。イエスの復活を説いていると、案の定サドカイ派の有力者の気に障り、二人は捕らえられました。翌日には律法学者まで来て二人を囲み、その権威性について訊問を始めました。
 
二人は、イエス・キリストの名のほかに救いはない、と明言します。当局は最初は二人の素性については不明であったようで、この時初めて、二人がイエスと共にいたということが判明したと記されています。顔がばれたという記述でありましょうが、信仰者にとっては含蓄の深い表現です。イエスを証しする者は、イエスと共にいた者なのです。トートロジーのような文ですが、イエスと出会った確かな経験があるということを告げています。
 
無学な普通の人であると当局は驚いています。学者のような立場で宗教思想を語っているのだと思い込んでいたのでしょう。これもまたひとつの慰めです。イエスと共にいたという証しは、学的な才覚や背景に基づくものではないのです。神学校経由でなければ福音が語れないなどということはありません。そんなことは聖書のどこにも書かれていないのです。
 
イエスの名によって語るなという脅しに対して、二人は神にこそ従うのだときっぱり言います。出会った事実は取り消せません。必要なことは聖霊がその都度教えるから案ずるなと告げたイエスの言葉が響いてきます。こうして二人は釈放されるしかありませんでした。依然として脅しは圧しかかりますが、ルカの軽蔑する群衆でなく民衆がこれを見て神を賛美していたと言いますから、聖霊の業は伝わるところには伝わるのです。
 
イエスを、群衆は排除しようとしました。不思議な業は見せてくれたが、その先にある「見えないもの」を見ようとしなかった群衆は、一旦期待外れだと裁定を下すとイエスを十字架につけろと叫び続けました。しかし、弟子たちを民衆は排除しませんでした。これはある意味で幸運でした。私たちもまた、いま排除されない社会が与えられています。ならば、ここからかの弟子たちのような働きが、きっとできるはずです。同じ信の中にある以上は。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります