殺されなかった者がいる

チア・シード

使徒3:11-19   


癒しの奇蹟の業が、神殿にいた人々の耳目を集めました。ペトロはこの民衆に向かってメッセージを送ります。この人々は、ルカが軽蔑の意味をもたせていう「群衆」ということではない要です。神からの言葉に、耳を傾けうる人々のようです。イスラエルの神と、イエスとを結びつけるメッセージ、それをペトロは説教することになります。
 
イエスを、ユダヤ人たちはローマ帝国に引き渡しました。弟子たちはイエスを裏切り、ユダヤ人はイエスを引き渡しました。どちらも同じ原語であることは有名です。ピラトへ引き渡してしまい、イエスによる救いの手を拒んだことになります。むしろ、バラバという人殺しの方を助けよ、とさえ言いました。それほどに、イエスを敵視したのでした。
 
永遠の命の主を殺害することに、君たちは加担したではないか。それをどう思うのか。ペトロが後で問うことになります。でもその前に、神がこのイエスを復活させたことを告げます。これは周囲の人々にも、否定はできなかったものと思われます。そんなの嘘だ、という罵声ひとつ飛んでこないのです。これは復活の傍証なのに、あまり指摘されません。
 
ペトロは、イエスの復活を証しします。証人という言葉は、後に殉教者を表す語にもなります。命懸けの証しなのです。私たちも、かくありたいものです。今ここで奇蹟が現れたのは、イエスの名によってであり、イエスの名を信じることに基づきます。奇蹟とは、イエスを信頼することにより怒った出来事にほかなりません。
 
しかもこの癒しの業は、完全な癒しであったと言っています。イエスの力は中途半端ではありません。完全なのです。ペトロが語る横で、そこにいたはずのヨハネがどんな様子であったのかも、少し興味が出ます。漁師だった二人が、霊により変えられてこんなにも大胆になり、雄弁になっています。この変貌自体が、大いなる癒しでもありました。
 
人々はこの二人が奇蹟を起こしたように見ましたが、ペトロはすぐに否定します。そして、君たちは「聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求した」ときつい言葉をぶつけました。私は心が痛みます。「人殺し」をバラバだとは限定していません。まさにこの私こそ、このイエスが代わりに死んだことになる、その「人殺し」だったのです。


Takapan
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