人殺しへの福音

チア・シード

使徒3:11-16   


美しい門へ毎日運ばれてきて、物乞いをしていた男がおりました。ペトロとヨハネは、銀や金はないがイエス・キリストの名を与えると言い、男は躍るばかりに癒やされました。これを見て人々は卒倒せんばかりに驚きます。男は二人の傍を離れまいとしますが、民衆が集まってきたところで、ペトロが口を開きます。その話の前半を今回は読みます。
 
これは人の故ではありません。イエスの名による信仰によるものだと言った、これが結論です。彼の名の信の上に、彼の名が男を強くした。彼を通して与えられた信が癒やしたのだ。このような言い方をしています。イエスの名が主役です。どう見ても、人間の力によるのではない、ということを伝えようとしているようです。
 
但しそれには前置きがあります。このイエスとは何者であるのかを告げます。あなたがたが殺した、あの方である。ペトロは民衆に、あなたがたが殺したのだと突きつけました。でも、こう言われて民衆が怒り乱れたような描写はありません。確かにユダヤの指導者たちはこの後反応していますが、癒やしの権威を与えたのは誰かと問うくらいです。
 
あなたがたが殺した。こう言われてカチンとしなかったのか、不思議な気がします。あなたがたは人殺しのバラバを釈放せよと要求し、命をもたらすイエスを殺せと叫んだではないか。そう迫ったのに。ルカがピラトに甘いのは、この書自身ローマ高官に献げた形をとっているように、ローマ側の目に触れることを想定しているからでしょうか。
 
イエスを殺したのはもちろんピラトではありません。ユダヤの神殿へ参拝に来ているあなたがただ、とペトロはぶつけます。これを私は、いま教会に来ている私たちのこととして受け取って然るべきではないかと考えます。私でない他人が殺したイエスにより、私が赦されて救われるということが、果たしてあるのか、と思うからです。
 
このイエスの名の働きが、神によるイエスの復活によるものである、とペトロは主張します。それがなければ、私たちもただの殺人犯です。しかし私が殺したイエスは生きています。生きているからこそ赦しがなされたのです。人殺しである私たちは救われました。私たちはそのことの証人として、これから生きていくことになるのです。


Takapan
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