いまの教会が憧れる
チア・シード
使徒2:43-47
言行録というくらいですから、言動と行動が次々と述べられてゆくのが通例ですが、ここは状況説明の場となっています。聖霊が降り、弟子たちは一変しました。ペトロの説教も一つの行動として描かれていると見るべきですが、その説教で、多くの人々が仲間に加わったこと、交わって共に祈る生活を始めたことが示されています。
そのため、「すべての人に恐れが生じた」のですが、もちろん「すべて」はレトリックです。そこに神の業が現れた、と理解できるでしょうか。「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」からです。その一つひとつの例は殊更に書かれていないように見えますが、もしかするとここから先に述べられていることを指すのかもしれません。
しかし、そもそも「信じた者たちは皆一つになって」いることなど、できるのでしょうか。ルカ伝と同じ記者によって書かれたと見られる使徒言行録ですが、理想化しているきらいはあるものの、これで伝えたい事態は、「不思議な業」であることには違いありません。「すべての物を共有し」ていたことは、原始共産制などと説明されることがあります。
当然私たち現在の視点からそう言うだけですから、解釈者本位の枠を当てはめてしまうことは好ましくはありません。社会制度や生活の常識が、いまとは全く違うのです。「財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも、経済生活全般に於いて、キリストの弟子たちがひとつの共同体を呈していたことを意味するのでしょう。
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していた」というのは、教会としてあるべき姿が映し出されている場面でしょうが、現代の私たちもまた、教会とはこうありたいという一つの理想モデルであるように見ることができるでしょう。いえ、とてもそれは実現しそうにないことですが。
さて、私たちは、「民衆全体から好意を寄せられた」存在であるでしょうか。いつも悪く見られているのではないかもしれませんが、気味悪がられ、近づけないところであるかもしれません。本当の好意があれば、「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」という、夢のようなことを現実に惹き起こすかもしれません。