あなたが殺したイエスに

チア・シード

使徒2:29-36   


ダビデが、その末裔からキリストが出ると預言していた、というのはもちろん、後の時代の見解です。けれどもペトロは、多くの人々、外国人も含む面々の前でそう言い切りました。そういう場面設定になっています。これが今の私たちの許へも伝えられるべきメッセージだとして掲げられたことについては、すでに確認しておいたつもりです。
 
だからこれは教義であり、信仰箇条だというわけです。これを言い切ったとたん、人々は心を打たれることになったわけで、よほどこれは「利いた」のでしょう。イエスは死んだ、イエスを殺したのはあなたがただ。つまり、これを読む私が殺したのだ、と突きつけられてきます。この自覚があってこその悔い改めであり、洗礼であるはずです。
 
そしてだからこそ、弟子たちの仲間に加わることがあったのです。でも、イエスは死んでしまったというわけではありません。イエスは生きています。復活したのです。神がイエスを復活させました。ペトロ、そしてイエスと共にいた者たちの役割は、そのことの証人となることでした。イエスのことを人の口を通して証言する必要がありました。
 
イエスは神の右に挙げられた。約束された聖霊が注がれた。キリスト者はそれを見ています。知っています。体験しています。だから証言できるのです。そしていま私たちもまた、証人となってゆきます。新たな証人が生まれます。さあ、いまこうして、それを見て、聞いているではないか。君たちも証人となっているではないか。
 
ペトロは再びダビデの詩を持ち出して、イエスこそ神と同等なのだと掲げます。イスラエルよ、聞け。新たな律法宣言です。あなたが十字架につけた。そのイエスを神が主とした。キリストである。救い主である。イスラエルを真に救う方が、こうして私たちに現れました。私たちは変えられようとしています。さて、あなたはどうするのでしょうか。


Takapan
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