イエスの目撃者の継承

チア・シード

使徒2:22-32   


イエスが死に支配されるままなどありえない。成り行き上、ペトロが聖霊降臨に際して説教をしたという中で宣言していることですが、もちろんひとつの演出の台詞ではあるでしょう。ヨエルの預言が今成就したのだとして、それがイエスであると簡潔に説きます。見事な総括だと言えます。十分に練られた信仰箇条であることは否めないでしょう。
 
そのイエスのまとめにおいて、新共同訳では、イエスは「引き渡された」と訳していますが、勘違いを起こさせます。新約聖書で「引き渡された」という表現は重要な語のひとつで、イエスの使命というか生き方を理解するのに大切な語なのですが、本箇所はその語とは別の語なのです。緊迫した福音書のシーンとは距離を置いたまとめとなっています。
 
イエスを復活させたのは神です。復活するというのは基本的に受動態であり、主語が隠されているならばそれは神だと理解して差し支えないのです。死がその鍵を握っている、つまり死の思いのままに操られているはずがない、というような気持ちでかの言葉は発されています。もちろん、イエスの遺体が消えたということは一般に周知であったのでしょう。謎のままであったからこそ、信憑性もあったはずです。
 
ペトロは詩編を七十人訳から引用しています。当時知られていた旧約聖書の標準ですからそれはよいのですが、そこから引用するためにも、メシアについてよく調べた末での結論でありましょう。その詩はダビデの作でした。ダビデはイスラエルの偉大な王であり、今イスラエルを救うのは第二のダビデであるという了解が人々にはありました。
 
しかしダビデ本人は人間に過ぎません。メシアであるなら復活するであろうという理解は、必ずしもダビデの主張ではなかったと思われます。ここで新たな理解が始まったことになります。神がイエスを復活させたことについて、ペトロなどの弟子たちがそのことの証人となりました。証人とは、殉教を表す語と同一であり、命懸けの行為でありました。この証人の輪の中に加われと、いまここで呼びかけられている声が聞こえますか。
 
復活の証人になるには条件が難しい人がいるかもしれません。しかし、聖霊が注がれた現象は現場の人々は見ています。ペトロの「わたしたち」は、聞く人々をも巻き込む効果をもっています。この言行録の読書も含めようとし、現代の私たちもそこに招かれています。私たちも、いまここから、新たな証人としての歩みを始めるよう呼びかけられているのです。
 
すると私たちはなおも、復活そのものを目撃していなかったとしても、復活そのものの証人にもなっていきます。また、中には復活のイエスと出会う人も、パウロのようにいるでしょう。見えるような形で聖霊を受けるという人もいるでしょう。また、復活の信仰に至るダイナミックな運動が起こることそのものが、まさに聖霊の作用であると証明できるかもしれません。


Takapan
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