五旬祭の出来事

チア・シード

使徒2:1-3   


五旬祭。新共同訳とフランシスコ会訳はそう訳していますが、他の多くの訳は「五旬節」。シャブオットというヘブル語が、ギリシア語でペンテコステと訳されて新約聖書に描かれています。律法で定められた7週目の祭のことです。一同が集まっていたのは、ユダヤの祭儀規定に従っていたことを示します。神殿に参るなど、まだ気分は十分ユダヤ教でした。
 
ヘブル語でこの祭の名は7の2乗で49を意味します。ギリシア語の名は50です。初日を入れる入れないという数え方は現代でも数詞の厄介な性質ですが、これらは同じ日を表します。この日、弟子たちはどんな生活をしていたか、そのリアルさに目を向けましょう。弟子たちの行動は、紛れもなくユダヤ人そのものです。
 
キリスト者たちは、ずいぶん後までも、ナザレ派などという、ユダヤ教の一派と見られていました。それもそのはず、ユダヤ教のメシアがイエス・キリストとして現れたのだ、とするだけですから、旧約聖書なしにはキリスト教はありえなかったのです。しかし、イエスをメシアと認めないユダヤ教側からすれば、これは小さな差ではなく決定的な違いです。キリストの弟子たちは弾かれて出て行く、あるいは迫害されることになります。
 
弟子たちは、ユダヤ人の求めている王国そしてメシアを知っているのだという姿勢で信仰生活を続けていたのではないでしょうか。しかしこの五旬祭の時には、まだ右も左も分からない状態だったと思われます。教義もありませんし、弟子たちは事のなんたるかが分かっていません。ペトロの説教がこれほどに見事であったとは考えにくいものです。後の脚色であることは十分考えられます。
 
しかし、私たちに信仰が与えられるということは、こういうことではないかと考えられます。はっと気づく。自分が見える。キリストに出会う。ひとつ壁を越えたら、それまで知らなかった景色が旧に目の前に拡がって見えるようになる。新たな世界が突然に自分の前に現れるのです。うまく言葉にできるかどうかは別として、ペトロが語った内容は、この時に見えたものなのかもしれません。
 
激しい風の音がしました。この風は、使徒17:25に「命の息」とあるその「息」です。「霊」という語は風や息を表すと言いますが、この場合の「息」は、人間などの「霊」を表す語としては聖書では使われていません。4節で異国の言葉を語らせた「霊」はプネウマで、風も息も精神も表す語ですので、ルカが描いたのは、ひとまず風でした。轟音でしょうか。
 
ルカは、至って自然の現象に近いレベルから、この聖霊の訪れを描きました。炎の舌は、旧約聖書にも類を見ないような描写です。舌は喋るもの。制し難いとするヤコブの指摘もありました。神の与える舌は、避け難く及びます。これを受けると、私たちは自由になります。制約されるものからの自由が与えられます。ヨベルのラッパを受けて、自由になるかのように。


Takapan
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