復活のイエスと出会ったからこそ

チア・シード

使徒26:9-18   


私はイエスの派に反対していた。パウロはそう告白します。今あるキリストの側とは逆の立場にいたのです。そればかりか、彼らを殺してさえいたと言います。これは酷い。牢に入れるばかりでなく、死刑へ票を投じたというのです。ソクラテスの裁判でも市民の票が投じられましたが、その場面で投票した人が後悔したようには描かれていません。
 
しかしパウロには、この票を投じたことが、自分の人生の転換点としてカウントされるだけのことだとずっと心にのしかかっていたのです。パウロにとりこれは胸の疵となり、人生を180度換えた出来事となったのです。この違いは何でしょう。天からの光、そしてサウルを呼ぶ声、つまりはイエスとの決定的な出会いがあったからにほかなりません。
 
アテネの人々の中には、このようにしてソクラテスと出会う者はひとりもいませんでした。せいぜい思い出があった程度で、弟子のプラトンは、このことを根に持ち、さんざんソフィストたちをこけにする対話篇を著し、ソクラテスの理想とした政治世界を実現しようとシチリア島で奮闘するのです。どうしてソクラテスと誰も出会えなかったのか。
 
それは、ソクラテスは復活しなかったからです。サウルはイエスと出会いました。復活のイエスと出会ったのです。出会うことができたのです。おまえの迫害している当の本人がこの私だと名乗り、イエスはサウルを光で圧倒します。そのサウルに、立ち上がれ、すなわち「復活せよ」の言葉を持って立たせ、ここから新しい人生を生きよと命じました。
 
その新しい人生は、私イエスを宣べ伝える人生だ。キリストの証人として生きるのだ。命をかけてキリストを伝える者となるのだ。おまえが闇から光へと移されたように、全世界へ出て行き、光の神のもとに人を集めよというミッションを与えます。パウロはこの体験を、ルカの筆のみならば、自らの書簡の中でも触れているので、これは事実でしょう。
 
それぞれに細かな相違があるなどと言う人がいますが、そんな違いは誰の証詞にもあります。語る場や時により、自分の救いの証詞であっても全く同じではありません。要は、復活のイエスと出会い、死を味わい、パウロの復活を遂げたということです。キリスト者と称する者よ、あなたはこのような出会いの事実をもっているだろうか。


Takapan
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