イエスの昇天の後

チア・シード

使徒1:6-11   


なぜ天を見上げ突っ立っているのか。ぼうっとしている場合ではない。白い衣の二人が告げます。ここから先、このような者がめったに現れることがなくなる点でも注目です。旧約以来様々な形で天使が登場してきましたが、この後は、異邦人の救いと牢から抜け出させる時のような特殊なケースに限られてきます。
 
ここは、イエスの姿が肉眼で捉えられる最後の場面です。イエスはまた同じ有様で来る、それを見ることになるその場面では、天使たちの合唱が伴うことでしょう。私たちの置かれた時代が始まった瞬間かもしれません。今もそれは続いています。イエスが昇天した、まさにその時に、私たちの時代が始まったのです。
 
さて、弟子たちはこのとき復活のイエスのもとに集まっていましたが、私たちもいわば毎週そのような状態ではないでしょうか。弟子たちはまだ、イスラエルの国の再興しか考えていないようでした。そればかり尋ねています。「この時ですか」に注目しましょう。復活のイエスをしるしとして、いよいよそのとかなのかと期待しているのです。
 
イエスは、再び来るという返答をしました。これが弟子たちのある意味誤った質問への答えでした。イエスは、時というほうを問題としました。そして、時は知ることがないと答えました。人はその時を知ることがありません。神の定めた時は、人知の及ばぬものです。しかし約束の聖霊が降ったときに、あなたがたは変えられるのだと告げます。
 
神の力、それはかつてはただ見せつけられるばかりのものでした。戦いのときひとは何ら働かなくても、神の力が的を散らしめることがありました。人間の沈黙と神の勝利です。それがローマ帝国の時代になり、あるいはバビロニア帝国の時代からか、めっきり示されなくなっていました。かつての伝説の戦いの勝利はもう来ないのでしょうか。
 
いえ、これから弟子たち一人ひとりが、その力を受けます。神の力の現れに変化が見られました。ユダヤから敵としてのサマリア、さらに世界へと弟子たちの足は前進し、福音は拡がっていきます。イエスを証言する証人となって弟子たちは、私たちは、進みます。見えなくなったはずのイエスが共にいるという奇蹟により、歩むのです。


Takapan
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